ライトノベルもケータイ小説も太宰治も、文学として馬鹿にはできない。
やほー!
はてなブックマークでライトノベル論が話題になっとったから、これはうちとしても取り上げざるを得ない。
「ライトノベルは質が低いのか?」はTwitterの創作クラスタでもしばしば、殺伐とした創作理論合戦に発展するんやな。けども、最近ではワナビ(作家志望)は純文学志望よりもラノベ志望の方が多数派になってきた感あるし、ラノベそのものを叩く創作者はそんなおらへん気がするんやけどな。
(参考記事)
ラノベ、ケータイ小説、そしてなろう小説
馬鹿にされがちな小説形態として「ライトノベル」「ケータイ小説」「なろう小説」(※Web小説サイト『小説家になろう』における異世界ハーレム小説)がある。
うちとして違和感なのは、「ラノベを馬鹿にされて怒る人たち」の一部が、その一方では「ケータイ小説」や「なろう小説」を軽蔑してたりするのを見かけたときなんやね。
- 「純文学と比較してライトノベルは文章力が低い」といった意見と同様に、
- 「ライトノベルと比較してケータイ小説はレベルが低い」
- 「ライトノベルと比べてなろうの異世界ハーレム小説はストーリーが陳腐である」
と批難することは、月とすっぽんを比べるくらいに滑稽なことや。
あの……その比喩表現だと後者をめっちゃ馬鹿にしてますが……。
あ、しもた……。
目玉焼きとオムライスを比べるくらい……とでも言ったらええのんかな。
- 純文学には、純文学の面白さがあり、
- ライトノベルには、ライトノベルの面白さがあり、
- ケータイ小説には、ケータイ小説の面白さがある。
みんなちがって、みんないい。
そして同列に語るにはセカイが違いすぎる。
読者が求めるもの、暗黙の物語文法、「上手い」の定義がこれらでは全然違うのやから。
(例えば、ケータイ小説のセカイでは『改行による余白の取り方』が、ひとつの上手さの指標となる)
ライトノベルのなかにも、
- 西尾維新『化物語』――(会話劇)
- 時雨沢恵一『キノの旅』――(寓話)
- 甲田学人『断章のグリム』――(ホラー)
- 竹宮ゆゆこ『とらドラ!』――(ラブコメ)
- 高橋弥七郎『灼眼のシャナ』――(戦うヒロイン)
- 遠野浩平『ブギーポップは笑わない』――(セカイ系)
- 土橋真二郎『扉の外』――(シミュレーション/ゲーム)
- 神坂一『スレイヤーズ』――(ヒロイック・ファンタジー)
- 筒井康隆『ビアンカ・オーバースタディ』――(メタ/SF)
- 紅玉いづき『ミミズクと夜の王』――(ラブ・ファンタジー)
(※上記にリストアップした作品はどれも私的おすすめ)
と、幾多ものジャンルがあって、とても一口には語れない。
これほどに多様な作品が溢れるセカイで、『ライトノベル』という概念だけを取り出して叩くことはもはや不可能と断言してしまってもいい。
ラノベを叩く人は、ライトノベルの規模感を知らないのだ――ということは上に挙げた参考記事に書かれてあるとおりやと思うし、そもそも『ライトノベル』と一口に言うのではジャンル分けにならない――ということは
『ラノベがバカにされる理由はジャンル分けが雑ゆえに、低俗なものが悪目立ちしてしまうから - かくいう私も青二才でね』の記事でも書かれとった。(追記:当該サイトが削除されたため現在は記事が消失)
これはほんまそのとおりやと思う。
ま、でもうちもライトノベル読んでよく……
(ふっ……○○大賞受賞といっても所詮はこの程度か……これなら俺の書いた方がうまいな……ドヤッ)
と内心ほくそ笑んだりするけどな。
最後の一文で台無しですよ!!!
作家志望として馬鹿にはできない『軽さ』
この記事はリンク貼った上記2つの記事の三番煎じ(あるいはn番煎じ)なのやけども、ただひとつ新たな価値を付加できるとすれば、小説の『軽さ』についてかもしれん。
ライトノベルという名称は『軽さ』をひとつの象徴としてるわけやけども、小説を書く身としては『軽さ』という概念は決して無視できない存在なのやね。
せやけど、『軽さ』はとかく見下されやすい。
あの太宰治も嘆いている。
私は、悲しい時に、かえって軽い楽しい物語の創造に努力する。自分では、もっとも、おいしい奉仕のつもりでいるのだが、人はそれに気づかず、太宰という作家も、このごろは軽薄である、面白さだけで読者を釣る、すこぶる安易、と私をさげすむ。
人間が、人間に奉仕するというのは、悪い事であろうか。もったいぶって、なかなか笑わぬというのは、善い事であろうか。(引用:太宰治『桜桃』)
と言うてはる。
太宰治でさえ「軽い」と叩かれとったんやね。
「せやけど奥さん、太宰さんの言わはる『軽さ』と『ライトノベルの軽さ』はまったく別物ですやろ? 文豪の虎の威を借りて調子に乗るのはいかがなものか……」
みたいなツッコミも、想定の範囲内や。
太宰治の「軽さ」を象徴する作品は――惜しくも未完の遺作となってしもたけども『グッド・バイ』やと個人的には思うとる。とにかく、読んでみたらすぐに分かると思う。引用してみる。
田島は、ただもう、やたらにわびしい。
「あんな事で、もう、わかれてしまうなんて、あの子も、意久地が無いね。ちょっと、べっぴんさんじゃないか。あのくらいの器量なら、……」
「やめろ! あの子だなんて、失敬な呼び方は、よしてくれ。おとなしいひとなんだよ、あのひとは。君なんかとは、違うんだ。とにかく、黙っていてくれ。君のその鴉の声みたいなのを聞いていると、気が狂いそうになる。」
「おやおや、おそれいりまめ。」
わあ! 何というゲスな駄じゃれ。全く、田島は気が狂いそう。
(引用:太宰治『グッド・バイ』)
"わあ! 何というゲスな駄じゃれ。全く、田島は気が狂いそう。"
この文体センスがめっちゃラノベ的で好きなんやね。
昔けっこう話題になったライトノベルの『僕の妹は漢字が読める』を彷彿とさせるリズムや。
でたひと→きよし
きよし「おくれちゃうにょ」
どうがサイトみてたら ねぼすけ ←だめっこ
いきなりちこくは やばっ
こうえんぬけたら
おなのことごっつん☆
きよし「うあっ」
おなのこ「みゃあっ」
(引用 かじいたかし『僕の妹は漢字が読める』HJ文庫)
※ちなみに引用箇所は『作中作として書かれる未来小説』であって、終始こんな感じで続くわけではない。 「最近のラノベの文章ひどいwwwww」といった2chスレの釣り画像によく使われる。あと筒井康隆さんの『エディプスの恋人』にも釣られる人が多い。
太宰治は『人間失格』が有名やけども、それと『グッド・バイ』とを合わせて考察するとけっこう面白いんやね。
人間失格作中では、主人公とその友達が世の中の言葉を「喜劇名詞(コメディ)」「悲劇名詞(トラジディ)」とに分ける遊びをしていて、作中の例だと
喜劇名詞(コメディ)
- 市電、バス
- 薬、医者
- 死
- 牧師、和尚
悲劇名詞(トラジディ)
- 汽船、汽車
- 煙草
- 注射、針
- 漫画家
といった具合なのだけれど、この理論で行くと……
- 人間、ライトノベルはコメ(喜劇名詞)――そして軽さであり(象徴としてのグッド・バイ)
- 自分、純文学はトラ(悲劇名詞)――そして重さである。(象徴としての人間失格)
《人間》は喜劇名詞である。ゆえに人間失格の主人公は、他者として傍観する限りには、悲劇よりも喜劇的で、そして誰よりも人間らしいユーモラスな人物にさえ思えてしまう。
ところが、主観的にはどうか。《自分》とは間違いなく悲劇名詞だ。そして《自分》の対義語―アントニムが《人間》となる。自分が人間でなく自分であることは、なんたる悲劇なのだろう。
人間失格の本文中には《自分》という言葉がじつに760回も出てきている。だからこそ、人間失格の方は悲劇に、グッド・バイの方は喜劇となり得たのだろう、きっと。
(引用:読書メーターに書いた感想)
ライトノベルと一括りにした概念では広すぎて何も語れないよ!と主張したあとで、このようなことを書くのは自己矛盾やけども、ただ『軽さ』というのは決して馬鹿にできない文学的概念やということが言いたかった。
本当なら『軽さ』を論ずるのであれば、ニーチェ、バタイユ、サルトル、クンデラも例に出して語りたいとこやけども、生半可な気持ちで書くとボロが出まくるので割愛。
すでにボロが出まくっている感じも……。
ええのええの。
結論としては、タイトル通り。
ライトノベルもケータイ小説も太宰治も、文学として馬鹿にはできない。
もちろん、上の3つを同列に並べて、比較評価することはできない。セカイが異なるから。
そして馬鹿にされがちな「軽さ」も、決して(小説家を志すのであれば)侮れるものではない――ということやな。
最後に、アメリカのSF作家、シオドア・スタージョンの法則を紹介して締めくくっておきたい。
SFの90%はクズである。ただし、あらゆるものの90%はクズである。
Using the same standards that categorize 90% of science fiction as trash, crud, or crap, it can be argued that 90% of film, literature, consumer goods, etc. is crap. In other words, the claim (or fact) that 90% of science fiction is crap is ultimately uninformative, because science fiction conforms to the same trends of quality as all other artforms.
90%のSF作品をゴミカス扱いするのと同じ基準を用いれば、映画、文学、消費材などその他あらゆるものの90%も同様にゴミである。言葉を変えれば、「SFの90%がカスだ」という主張ないし事実のもつ情報量はゼロである。なぜならば、SFは他の芸術/技術の産物と同様の質的傾向を示しているに過ぎないからである。
(引用:Wikipedia「Sturgeon's law」「スタージョンの法則」)
(おわり)