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ときまき!

謎の創作集団による、狂気と混沌の執筆バトル。

とある小説家志望が、自分の殺した《遊びの神》を生き返らせる話

1.「好きなことで生きていく!」の重さ

とき台詞

「好きなことで生きていく!」

YouTuberのキャッチフレーズって《重い》と思わへん?
《好きなことで》に係る《生きていく》の部分が、《仕事》や《人生》といった言葉を連想させるんやね。うちは、この標語はもっと軽くてもええと思う。

例えば、「楽しいからみんなもYouTuberになって遊ぼうぜ!!」みたいな気楽なノリやとええんやね。

 

まき台詞

たしかに、実際にCMを見てみると、HIKAKINさんもマックスむらいさんも、バイリンガールさんも、『遊び』『楽しい』『面白い』という言葉を使ってYouTubeを語ってましたね。

 

とき台詞

もちろん、好きなことを仕事にするのも素晴らしいことやし憧れるけども、好きなことは純粋に《遊び》でもええんやでって話をこれからしたい。

様々な生き方(絵:さまざまな生き方がある)

重い荷物を背負って、沙漠を一生懸命に歩むラクダは、敬意を払われるべきやろう。
力強く、狙った獲物を目掛けて全力疾走するライオンも、成功を手にするべきやろう。
せやけど、自然のままにただ遊んでいる《子ども》もまた、ひとつの人間としての生き方なんや。

 

まき台詞

なんだか今回、怪しい自己啓発書や新興宗教の薫りがしますよ……。

 

とき台詞

いやいや、そう言われると辛いな。元ネタを知ってる人がおったら、ついさっきの暗喩の時点で薄々と勘付いとうかもしれんけど、今回もやっぱ創作理論の話なんやわ。
話がブレるから結論をドーンと出しとく。

創作する者たちよ、《遊びの神》を生き返らせよ!

まき台詞

やっぱりオカルトだ……。

 

2.とある小説家志望が、自分の殺した《遊びの神》を生き返らせる話

原稿用紙から飛び出す創作上のキャラクター

 

 ボ――――ン
 ボオオオオ――――ンン
 ボオオオオオオ――――――ンンン

 

 チクタク、チクタクと、秒針が時を刻み始めた。
 朧げな意識。僕は先ほどと1ミリも変わらない姿勢で、原稿用紙の前にうなだれている。

 三月末までに十二万文字、書き終えなくてはならない。否、三十歳を迎える前に、小説家デビューを果たさなければいけない。時間がない、時間がないのだ――。

(やはり、読者はここで読むのをやめてしまうか……)
 紙の上を、ペンの先でトントンと叩く。

(最近のライトノベルの傾向を考えると、少々過剰なくらいのお色気シーンを入れた方が大衆受けする。例えば、冒頭でヒロインにエッチな台詞を言わせるとか……主人公がすごく変態思考だったりとか……)

 僕は、原稿用紙の右端に大きくバッテンを描き、さらに大きく《スクール水着、妹》とメモ書きした。
(安直だが、これで行こう。もう僕には余裕がない……。露骨な萌え描写でも、冒頭で読者を釣れたなら儲けものだ)

 

 そのとき――――。
 頭の上から、雷鳴のような声が轟いた。


「ゾンビや!! もはやその創作は、ゾンビにまで堕ち果てているんに気づかんのかいな!!!」

「だ、誰だ!?」

 原稿用紙の真ん中から、ぬーんと飛び出してきた。
 二頭身のデフォルメ化された、茶髪の女子高生のような何かだった。

 

「あんな……、君は初めて創作したとき、どんな気持ちやったんや。えーい、まどろっこしいからたこ焼きひっくり返すやつで、こうしてこうや!!」
 そう言うと少女は、竹串で僕のおでこを一突きにした。


 ボ――――ン……ボ――――ン……


 僕が初めて小説を書いたのは、小学三年生のときだった。
 処女作のタイトルは『扇風機ちゃんとストーブ君』
 どんな内容だったかは忘れたが、きっとくだらない話だ。でもあの頃は、夢中になって、何かに取り憑かれたかのように『消しゴムとえんぴつ君』『カブトガニの大冒険』『生活豊かな発芽米マン』などの奇作・怪作を書き続けていた。

 

 僕は創作のなかで、あるときは消しゴムに成り切っていたし、あるときはカブトガニになって海底に息を潜めていた。楽しかった。
 誰からも評価されなかったが(作文ではいつも変なことを書くので、職員室に呼び出されもしたが)、その創作活動はどこか神秘的で、神聖でさえあった。

 

 誰からも創作物は肯定されなかったが、創作することはいつも自分自身で自然のままに肯定していた。


 ボ――――ン……ボ――――ン……


 中学と高校では、文芸部に所属していた。
 そのときから、周りからの評価をすごく気にするようになった。

 当時は、サブカルチャーやライトノベルといった存在は今ほど有名ではなく、オタクを馬鹿にするような風潮はたしかにあったかもしれない。僕も、その頃は深夜アニメやライトノベルを(見てもいないのに)すごく低俗なものとして考えていた人間だった。

 文芸部では、太宰治や三島由紀夫、安部公房、あるいはナブコフ、ヘミングウェイ、ヘッセなどを読み合って、今にして思えばただの見栄でしかなかったが、文学やってる俺カッコイイ!!をやっていた。(それはそれで青春だが)

 また、芥川賞受賞作品への批評や考察などもやっていた。文化祭のときに発表した論文、『現代に視る芥川賞の頽廃と文学的傾向』はじつに上から目線だったし(中二病で)、今だったら恥ずかしくてウォータースライダーに飛び込みたいくらいである。

 

 その頃からだ。
 僕は、作品の批評はよく書いた。

 けれども、自分の創作はちっともしないようになった。
 他人からの評価が、怖かったからだ。

 

 僕にとって創作活動は、人間的な劣等感へと変わっていった。
 創作が、神から人間になった。


 ボ――――ン……ボ――――ン……


 そして、今。
 何でも良いから、世間に認められたいという《承認欲求》が日頃に強くなっていく。

 大学時代に『ブギーポップは笑わない』や『灼眼のシャナ』といったライトノベルに出会い、感動し、自分はライトノベルの世界で《萌えと青春》を突き詰めてみたい――といった当時の純情は、消え果てていた。

 

 ○○文庫の新人賞受賞作を読むたびに「ふっ、これなら俺の書いた方がうまい……」とほくそ笑んだり、Amazonの☆ひとつのレビューを見て蔑みの眼差しを向けたり、僕はそういったルサンチマン(弱者の強者に対する憎悪)に取り憑かれるようになった。

 

 今、大衆に媚びてでも、せめて一次選考を突破してほしいと願う自分がいる。小説家デビューするという目的意識に取り憑かれて、僕は創作することの楽しさや喜びを忘れてしまった。

 創作行為は、神の遊戯から引き降ろされ人間になり、挙句の果てにはゾンビに変わる。創作から《遊び》が消え、つまらない目的意識だけになった。


「ゾンビ、か……」
 僕が呟くと、デフォルメの少女も相槌を打った。

 

「せやな……、ゾンビなんや……」


 思い返せば、小説を書く行為は《遊び》の延長線上にあって、幼少時代のお人形遊び、おとぎの国の空想が、創作という形に昇華されてきた。しかしその過程で、知らず知らずのうちに「遊ぼう」と心の底からわくわくして楽しむ感じ、キラキラとした小石のような何かが、失われていたことに気づいたのだ。

 


「なあ、また子どものときみたいに、……うちと遊ぼうや」

 少女の寂しげな笑みに、心を衝かれた痛みが走る。
 気がつくと僕は、子どものような泣き顔で、原稿用紙に涙を落としていた。


 ボオオオオオオ――――――ンンン
 ボオオオオ――――ンン
 ボ――――ン


 (了)

 

3.創作を「神のように肯定すること」

とき台詞(満足顔)

ってことが、こないだあったんでな。
うちも、創作における遊びの大切さを、みんなに伝えたかったんや。


じゃあ、まきちゃん、あとは記事のまとめよろしくー!
ええ感じに締めくくっといてや。

うちはたこ焼き買いに出かけるから、さいならー。

 

まき台詞

えっ、ちょっと待って、何、この展開!!
何、そのムチャぶり!!!

 

ニーチェイラスト(絵:ニーチェ…?)

 

えーっと……
まず初めに「ラクダ」「ライオン」「子ども」の生き方の話がありましたが、これはドイツの思想家ニーチェが著作『ツァラトゥストラ』のなかで、精神の三様の変化として例示しているメタファーです。
小説を書く人にとって最も重要であると考えられるくだりを引用してみます。

 

 小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。
 そうだ、わたしの兄弟たちよ。創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。
(引用:ニーチェ『ツァラトゥストラ』【第一部/三様の変化】中央公論新社/手塚富雄 訳)

 

非常に難解な言葉で、理解しづらいかもしれません。別の翻訳と合わせて読むと、ぐっと意味が掴みやすくなるかと思います。もうひとつの訳書の、同じ箇所を引用してみます。

 子どもは、無邪気だ。忘れる。新しくはじめる。遊ぶ。車輪のように勝手に転がる。自分で動く。神のように肯定する。
 そうなのだ。創造という遊びのために、兄弟よ、神のように肯定することが必要なのだ。自分の意志を、こうして精神は意志する。自分の世界を、世界を失った者が手に入れる。
(引用:ニーチェ『ツァラトゥストラ』【第一部/3つの変化について】光文社古典新訳文庫/丘沢静也 訳)

 

永遠回帰で知られるニーチェの思想は、わかりやすく言うならば《生の絶対的肯定》です。人間が劣等感や怨恨に囚われずに強く生きるために必要なのは、ある種の軽やかさであり、笑いの神であり、子どもの遊戯のようなもの。
あるいは、自分自身を「大きな愛をもって愛し、大きな軽蔑をもって愛する」※ことでしょう。これはおよそ、創作活動にも当てはまることではないでしょうか。

創作には、子どものような無邪気な(しかし神聖な)遊び。そして、神のように肯定することが不可欠なのです。

※(ツァラトゥストラ/人間を小さくする徳について)軽蔑のない愛はただの自惚れであり慢心に繋がるので、高みに行くには自分への愛と同時に軽蔑も必要である。

 

また『遊びと創作』を考える上で極めて重要な示唆を投げかけているのがドイツの児童文学作家ミヒャエル・エンデです。代表作の『モモ』では、大人が子どもから《遊び》を奪ってしまった世界が描かれています。

最後に、エンデの言葉を引用して記事を締めくくろうと思います。

 

 私にとって遊びは、最も大きな決定権を握っています。この場合の遊びとは、もちろん、うんと広い意味で言ってるのでして、子どもの遊びばかりでなく、人間が所有する、最も重要な生の要素のうちの一つとなるものです。
(引用:ミヒャエル・エンデ 『ファンタジー神話と現代』人智学出版社/樋口純明 訳編)

 

エンデが『ものがたりの余白』の中でも語っているとおり、《遊び》は決して何かをいい加減に適当に取り組むといったことではなく、それを真剣に取り組むのであれば、人の人生とはまさしく遊びそのものであり、エンデの言葉を借りるならそれは"聖なる「遊び」"でさえあるのです。

 

ときちゃんは恐らくそういった意味での、遊びの重要性を説きたかったのでしょう。

一方で私自身の創作理論は違っていて、私はもっと創作を「受動的で自動的なもの」と考えていますが……これはまた別の機会に。

 

ではでは。長くなりましたが読んでくださってありがとうございました。

 

(終わり)

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