クラゲとスカート
砂浜にスカートが打ち上げられていた。ウエストは輪を保ったまま、裾がふよりと円を描く。布地は海水を吸って軽やかさを失っている。波が寄せてきて、スカートから飛び出た触手のような二つの紐が微かに揺れた。
それはどう見ても生き物だった。もしもスカートが口を開くのならば、彼女は(性別が女性とは限らないが)「ふふ、私は海で生まれて、海で暮らして、そして海で死ぬのよ」と言い出しそうな雰囲気だった。もはや人工物の枠組みを跳び越え、生きる自由を獲得した何物かに思われた。
私の手には、一眼レフカメラがある。海岸へは写真撮影に来ていた。しかしこの神聖な生物を被写体とすることは、宇宙に対する冒涜であるかのような気がしてきて、ついにはシャッターを押せなかった。
戦果無しで帰るのは嫌だったので、帰り道でビルやら銅像やら鉄道やらにカメラを向けてみる。心をときめかせてくれる被写体はもう見つからなかった。
段々と「惜しいことをした!」という気持ちが強くなる。絶好のチャンスだったのに。海で野生のスカートと遭遇する機会が人生に何度とあろうか。背徳感に似た感情に怖気づいて、まんまと取り逃がしてしまった。悔しい。気がつけばスカートが思考から離れてくれない。
あてもなく、駅前の繁華街をさまよい歩く。飼い主のいるスカートが至る所でダンスしていた。人間が歩くたびにスカートは嬉しそうに、はしゃいだり跳んだり揺れたりするのだ。私は人生で初めて、スカートそのものを見た気がした。
丈の短いスカートが、階段を登ろうとする。見えない視線の気配がムラムラと集まってくる。
ふと、「海に帰りたいよぅ」と声が聞こえた。
スカートは雑踏のなかへと姿を消した。
居たたまれなくなって私はあの砂浜へと走ったが、見つけたのは水気を失ったクラゲ一匹だけだった。
(おわり)