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ときまき!

謎の創作集団による、狂気と混沌の執筆バトル。

文章にユーモアを与えるレトリック「誇張法」の使い方

海鳥まき

誇張法はユーモアの修辞技法です。何かを大げさに表現することで文章に面白味を加える、あるいは語り手の心理・感情・思考を強調するときに使います。

たとえば常套句では、次のようなものが誇張法にあたります。

  • あまりの美味しさにほっぺたが落っこちそうになった
  • ラクダが針の穴を通り抜けるよりも、ずっと難しい
  • 風よりも速く駆けてきた

いずれの表現も、客観的事実として見れば「嘘」を言っています。三ツ星レストランの高級料理もほっぺたを落とすことはできませんし、ラクダが針をくぐるのはそもそも不可能です。陸上競技の金メダリストだって、1秒間で30メートルも先へ進んでしまう台風の速さには敵いません。

誇張法の本質は、客観的に「偽」であり主観的に「真」であるところにあります。つまり、ほっぺたが落ちるのも、針穴を通るより困難なのも、風よりも速いのも、語り手の心理としては理解できるし、共感できるのです。

私的に気に入っているのは「首がちぎれるくらいに頷いた」という常套句ですね。古くから使われている表現なのですが、初めて目にしたときはそのインパクトの強さに驚きました。小説ではこのような誇張法がたくさん見つかります。

誇張法は使い勝手の良いレトリックです。

文章にユーモアを与えるだけでなく、心理描写としても活かすことができる。さっそく実作品での使用例を見ていきましょう。

【例1】身体の一部を《主体》にして誇張する

「誇張法」と一口に言っても、その技法は多岐に渡ります。誇張法のなかに比喩・提喩・換喩等が含まれるケースは少なくなく、とにかく多彩なバリエーションを持ちます。

私は自由と歓喜に()ちた筋肉を動かして海の中で(おど)り狂った。

(引用:夏目漱石『こころ』青空文庫)

上記の一節は夏目漱石の『こころ』に出てきます。

「自由と歓喜に充ちた筋肉を動かして海の中で躍り狂った」という表現は、とても大げさ(オーバーリアクション)であり、誇張法にあたります。

ちなみに作中の『私』は二十歳を過ぎた大人です。

(子供ならほんとうに踊り狂うことはあるとしても)さすがに海水浴で『踊り狂う』のは誇張表現であるのが、読者にも伝わるでしょう。これは『私』の大きな喜びを示すための誇張といえます。

ずっと親しくなりたいと願っていた『先生』と初めて一緒に海水浴ができた、その深い歓喜の念が一文に込められています。

(補足)主体をずらすテクニック

誇張法は物事を大げさにいうテクニックだよ!終わり!で記事を終えても良いのですが、それも味気ないのでもう少し(マニアックな方面に)掘り下げていきましょう。

引用文では「主体をずらす」高度なテクニックが用いられています。小説ではよく見受けられる手法です。

つまり上記の文は

自由と歓喜に充ちた私は、筋肉を動かして海の中で踊り狂った。(例文)

と書くのがふつうの配列の仕方なのです。喜ぶ主体は《私》であり、筋肉が感情を持って喜ぶはずがありません。

ところが夏目漱石は、こう書いている。

 私は自由と歓喜に充ちた筋肉を動かして海の中で躍り狂った。(夏目漱石)

喜ぶ主体が《筋肉》へとズレているのです。これだけ見ると文章としておかしいのではないかと思われるかもしれませんが、文体のリズムや表現としての美学を考えたときに、こちらの文章の方がより良く思えてしまう。

同じく誇張法×主体ずらしのテクニックを使用している例として、蘭郁二郎(らんいくじろう)

夢鬼(むき)』を見てみましょう。

そして明るい()と小気味よい鼻は静観の美であり、かすかに開かれた紅唇(くち)から覗く、光さえ浮んだ皓歯(こうし)は、観客の心臓を他愛もなく(えぐ)るのだ。

(引用:蘭郁二郎『夢鬼』青空文庫)

作中のヒロイン、葉子の美貌を評する描写です。

なお、明眸皓歯(めいぼうこうし)という漢詩由来の四字熟語がありまして――澄んだ明るい瞳に、きれいな白い歯――、すなわち美人の形容表現として用いられます。上記の描写は明眸皓歯を念頭において書かれています。

さて、ここでは『光さえ浮んだ皓歯は、観客の心臓を他愛もなく刳る』の部分が誇張となります。

ホワイトニングされた真っ白な歯は、もしかしたら光を浮かべることくらいはあるかもしれませんが、さすがに心臓を抉るまではしないでしょう。

客観的事実では《偽》であり、しかし語り手の主観的心理では《真》となる。葉子はほんとうに、見るものの心臓を抉る(そこまで強烈な喩えを使わなければならないほどの)美の持ち主なのです。

ところでこの文章においても、主体がずれているのが分かると思います。

陳腐な書き方をすれば

彼女は自分の美貌で、観客の心をわしづかみにした。(例文)

くらいになるのですが、ここでは観客の心臓を抉る主体が《彼女》から《皓歯》へとずれています。

光さえ浮んだ皓歯は、観客の心臓を他愛もなく刳るのだ。(蘭郁二郎)

このように「身体の一部」を主体にして、その人自身のことを指し示すレトリックを換喩(メトニミー)といいます。とくにここでご紹介した表現は、換喩のなかでも主体化の技法が用いられています。

換喩について語りだすと長くなってしまい、到底この記事中には収まりそうにないので別の機会に。

ここでは『身体の一部分を主体として描くことで、誇張的な表現ができる』とまとめて締めくくりたいと思います。

せっかくなので例文を書いてみると――、

 クライアントは眉間にしわを寄せ、ただ一言を発した。

「進捗はどうなってます?」

 訊かれた彼の、頭は真っ白になる。そして胃袋がムンクの叫びのような悲鳴をあげて体中を跳ね回った

「では今日中に原稿を仕上げておきますね」

 彼は言って、死神に取り憑かれたかのごとく勢いでキーボードを打ち始めた。ドキュメントはみるみるうちに文字で埋め尽くされてゆく。納期に追われた憐れな十指が繰り出す連撃には、千手観音とて敵うまい

このような感じに。

巧拙はさておき、誇張法では文体にユーモアを演出しやすいのがわかると思います。「型」さえ覚えてしまえば、比較的使い勝手の良い技法です。(やりすぎるとしつこくなりますが)

【例2】過剰描写と列挙(描写そのものの量が過大)

誇張法の他のパターンも見ていきましょう。

(作品例)太宰治『人間失格』の冒頭『私は、その男の写真を三葉、見たことがある。』から『私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。』のプロローグ終わりまで、約1,900文字に渡るすべての描写が誇張的技法を伴っています。

リンク先は青空文庫ですので「はしがき」だけでも読んでみてください。誇張法のオンパレードです。

人間失格のプロローグではひたすらに「私はその男の写真を見て嫌な気持ちになった」という心理を伝えるのに執心しており、そのたったひとつの伝達のためにあまりにも過剰に描写しています。

額は平凡、額の皺も平凡、眉も平凡、眼も平凡、鼻も口も顎も、ああ、この顔には表情が無いばかりか、印象さえ無い。特徴が無いのだ。

(引用:太宰治『人間失格』青空文庫)

もう延々と「写真の男のどういうところが嫌なのか」を列挙し、並べ立て、過剰な描写で圧倒する。作中の冒頭文章全体がひとつの大きな塊として、誇張法を形成しています。

所謂(いわゆる)「死相」というものにだって、もっと何か表情なり印象なりがあるものだろうに、人間のからだに駄馬の首でもくっつけたなら、こんな感じのものになるであろうか(後略。引用:同上)

さらに太宰治は、すでに可精密で十分誇張されている描写のなかで、さらに誇張法を重ねがけします。(この男より死相の方がマシ! 駄馬の首でもくっつけたみたい!…etc)

この一連の誇張によって、読者に圧倒的な印象を与えるのに成功しています。ここでいう印象とは、作中の私が抱く嫌悪感のことですね。

最初の夏目漱石の『こころ』では一文のなかに誇張法が見られましたが、太宰治の『人間失格』のように文章全体が誇張法となっているケースもあります。このタイプのレトリックには、ほかに列挙法だとか執着法だとか、さまざまな呼び名があります。

【例3】比喩(比較対象が大げさ)

それは身長六尺を超えるかと思われる巨人であった。顔が馬のように長くて、皮膚の色は瀬戸物のように生白かった。薄く、長く引いた眉の下に、鯨のような眼が小さく並んで、その中にヨボヨボの老人か、又は瀕死の病人みたような、青白い瞳が、力なくドンヨリと曇っていた。

(引用:夢野久作『ドグラ・マグラ』青空文庫)

上記は、決してバケモノを描写しているわけではなく、人間を描写しています。六尺はおよそ1.8メートルですから、これはともすれば誇張とは言えないかもしれません。

しかしその後の「馬のよう」「瀬戸物のよう」「鯨のよう」といった比喩は、典型的な誇張表現です。比較対象が大げさですので、まるでオバケとでも相まみえているような印象を与えます。

比喩と誇張法は密接な関係があり、誇張法の多くは比喩の形をとります。(もちろん提喩や換喩などを使った別パターンもあります)

気が弱い人を『ノミの心臓』と表現するのもこのパターンですね。

誇張法を使う際の注意点

ここまでご紹介した3種類の誇張法の「型」は、非常に数多くある誇張法のテクニックの、ほんの一部に過ぎません。氷山の一角です。

繰り返しますが「客観的事実として《偽》であり、主観的心理として《真》であるもの」を探すのが誇張法を見つけるひとつの秘訣となります。

つまり「現実世界」と「語り手の思考」との間に生じる《ギャップ》が文章にユーモアを生み出し、語り手の心情をより効果的に伝えるのに寄与するわけですね。

誇張法を使うときにもっとも注意しなければならないのは、心にウソをつかないことです。

これは私自身の過去に犯した過ちの、深い反省から来ているのですが、描写でウソをつくのだけはよくない。つまり、文章を面白くするためだけに誇張法を用いて、自分やキャラクターの心を捻じ曲げてしまっては本末転倒となります。

例えば「ほっぺたが落ちた」という誇張表現は、事実としてはウソだとしても、そのように語る話者の内心は、紛れもなく(本当に!)美味しさにほっぺたが落っこちそうだと感じていなければならないわけです。

誇張法は、真実と虚構の境界線にあるレトリックです。乱用すればオオカミ少年のようになってしまいますし、心にないことを大げさに言うのでは、ただの嘘と見分けがつきません。

パラドックス的に述べるのならば、誇張法は「真実を伝えるために嘘をつく(・・・・・・・・・・・・・)」レトリックと言えるでしょう。

(終わり)

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