ときまき!

謎の創作集団による、狂気と混沌の執筆バトル。

長編を書き切るための小説講座

長編小説を書くのは苦しく、挫折しやすいものです。ときまき!では、どうしたら(なるべく苦しまずに)長編原稿を最後まで書き切れるのかを模索し、創作理論や執筆ノウハウに関する記事を連載してきました。

「長編小説を完結させる!」の目標達成に役立つであろう記事をここでは厳選し、目次としてまとめています。

長編執筆のための創作ノウハウ

より良く描写するためのレトリック入門(修辞技法/文体理論)

小説を書くことに関するコラム(創作理論)

創作役立ち系書籍のレビュー記事

プロット作成占いツール「タロットプロット」

「狂気の先にあるもの」ゲオルク・ハイムは何を書いたのか?【記事未完成】

ゲオルク・ハイム『モナ・リーザ泥棒』(河出書房新社1974年)を読んだ。いわゆる絶版本で入手が難しく、中古で2万円近くする。河出書房がまた新訳の世界文学全集版を出してくれたら嬉しいのだが、Amazon Unlimitedが話題となるなか、このように金を積んでも手に入らない本というのは存在する。

現状、これを読むためには、大学図書館や公立図書館をまわって探すのが最も早い。私もそうやってようやく見つけた。通読するなら一日でも可能だが、自分のなかで消化するには最低でも一年は要する作品。到底、三週間の貸出期限では理解し得ない。なのでこの記事に追記していく形で、感じたことを列挙していく。

(まだ記事としては未完成で構想メモ状態です。4年くらいかけてこの記事を仕上げていきます)

2016年8月9日 記

『モナ・リーザ泥棒』は短編集で、どす黒く救いようのない絶望的で頽廃したとてつもなく狂気に満ちた冥き物語が寄り集まっている。ボードレールの『惡の華』が好きな人は、間違いなく本作に飲み込まれるだろう。事実としてハイムはボードレールの影響を受けている。

(メモ)デュオニソス的狂気を感じる。

一部、いや多数の熱狂的な読書家から『モナ・リーザ泥棒』は高く評価され、絶賛される。その書評や考察には必ずと言って良いほど「狂気」の文字が入るのだが、これを私は「罠」だと考えている。

『モナ・リーザ泥棒』が描いたのは狂気そのものではなく「狂気の先にあるもの」ではないのか。同様にして、作中で描かれるのは「狂人」ではなくて「狂人が変身したあるもの(・・・・)」ではないのか。私は疑っている。

本作が「狂気」や「絶望」を表現したものだと素直に(・・・)解釈するのは、やや踏み込みが浅いかもしれない。いや、踏み込みが浅いと思わせるほどの恐怖を作品が投げかけてくるのだ。「お前はまだその程度にしか到達していないのか?」と。

じゃあその「狂気の先にあるもの」とは何か。私はいくつか直感を得ている。しかし、今この場で書くのは正直憚られる。というより出し惜しみをしたい。いや、まだ消化しきれていないことなので書けない。ただ、少なくともはっきりと感じることは、あの短編集のひとつひとつは「絶望」ではなくむしろ「希望」なのだと。「破壊」ではなくむしろ「  」なのだと――。

同じ狂気という話であれば、アンドレ・ブルトンの『狂気の愛』の方がずっと狂気じみた文体であった。『モナ・リーザ泥棒』は文章に関していえばかなり読みやすく、比喩も計算された形で使われている。どのようなレトリックが使用されているのか、分析しようとすれば可能なくらいだ。狂気的どころか、理性的な文体で「狂気」が書かれている。理性的な狂人である。

2016年8月9日 記 その2

ゲオルク・ハイムは24歳のときに溺死した。奇しくも本書を読んだ僕自身も24歳で、おそらく最もショックを受けたのはその事実であったように思う。

メモ

gutenberg.spiegel.de

じつはドイツ語の原文であれば上のサイトで読めるのだ。うああああああああああ、大学時代にしっかりドイツ語勉強しておけば!!!!!!

今後書くもの(この記事に追記・編集予定)

1.狂気の先にあるものは「  」である。

2.狂人とは「   」のなり損ねである。あるいは「  」を現実に齎すものである。

→ その理論が作中で用いられていることの証明。

3.「体験話法」の働きについて/フランツ・カフカ

4.デカダン派との繋がり/ボードレール

5.ニーチェの語る「   」の道と、デュオニソス的な何か

6.ゲオルク・ハイムの用いた修辞技法「交差呼応」「異例結合」「共感覚法」の3つの実践的考察。

7.私の狂気よ世界を喰らえ

(未完/2020年完成予定)

「てにをは辞典」小説書きの辞書レビュー

本日ご紹介するのは「てにをは辞典

紙の辞書のなかでは最も使用頻度が高く、愛用している。小説の執筆中はいつも手元に「てにをは辞典」を置いている。

ネーミングから、助詞(てにをは)の辞典なのかな、と思われるかもしれない。だが実際には「コロケーション辞典」と呼んだ方がふさわしく、本書は《言葉と言葉の結びつき》を探すための辞典である。詳しくは後ほど。

てにをは辞典

(ゾウの表紙がかわいい。姉妹辞書の『てにをは連想表現辞典』との比較記事はこちら→「てにをは連想表現辞典」てにをは辞典との比較とレビュー の記事に書いた)

1.何のために辞書を引くのか

小説を書くにあたって、辞書を引く理由はいろいろと思いつく。ボキャブラリーを増やすため、描写の力を上げるため、単語の意味を調べるため……etc

しかし、あらゆる辞書において、その本来的な役割というのはたった一言に言い表せる。すなわち辞書の役割とは《代替表現を探すこと》だ。コロケーション辞典に限らず、国語辞典、類語辞典、比喩辞典、レトリック辞典、オノマトペ辞典、これらは、自分の頭に思い描いた文章の《代替表現を探すために》真価を発揮する。

代替表現を探す、という考え方はとても重要なので、ぜひ覚えておいて欲しい。小説の執筆中に辞書を引くのは、より相応しい言葉や表現を見つけるための儀式である。

2.「てにをは辞典」を小説の執筆にどのように使うのか

一例:行動を描写する

ここでは「歩く」描写について考えてみる。同じ「歩く」でも、早歩きだったり、のろのろ歩きだったり、足を引きずっていたり、歩幅が大きかったり、表現次第でその人物の性格や心理状態がまるっきり変わってくる。

  • 「彼は歩いている」

これだけでは何も伝わらない。なので、より詳細な心理を伝えるための表現を五個考えてみよう。行動描写を書く際に、てにをは辞典は大層役立つ。

以下、てにをは辞典の活用によって書くことのできる例文。

 彼は全身にうっすらと冷や汗をにじませて、忍び足に廊下を進んだ。

(てにをは辞典/以下略 p.1398 全身に・うっすらと【冷や汗】が→にじむ/p.62 忍び足に【歩き回る】)

 大げさにため息をつく。投げやりな歩き方で、彼は壇上にあがった。

(p.991 おおげさに【ため息をつく】/p.62 投げやりな【歩き方】/p.1000 【壇上】に→あがる)

 彼はひきつった笑みを口元に浮かべ、食卓を立つ。そして急ぎ足に玄関へと向かった。

(p.199 ひきつった【笑み】口元に【笑みを浮かべる】/p.62 急ぎ足に【歩く】/p.793【食卓】を→立つ)

 彼は無愛想な返事を返すと、さっさと大股に歩み去った。

(p.218 さっさと【大股】に→歩み去る/p.1486 無愛想な【返事】を→返す)

 顔に苛立ちの色をちらつかせ、彼は脇目も振らずに道を歩いた。

(p.298 【顔】に→いらだちの色をちらつかせる/p.63 脇目も振らずに【歩く】)

おおよそ、このような感じとなる。てにをは辞典には「語と語の結びつき」が60万例も収録されている。てにをは辞典に載っている用例だけで小説を書き上げることさえ、おそらく可能だろう。

3.てにをは辞典は本当に必要なのか?

上に挙げた例文を読んで、もしかしたらこのように感じられたかもしれない。「これって辞書を引かなければ思いつかないような表現? わざわざ辞典に頼らなくても、自力で描写できるんじゃないの?」

身も蓋もないことを言うと、私もその通りだと思う。てにをは辞典には、凝った修辞技法の類はほとんど出てこない。あくまで、一般的に用いられる(悪く言えば月並みな)慣用表現がメインである。

けれども、それが良い。だからこそ良い。仮に『納豆の糸のような雨』(蟹工船/小林多喜二)、『トテモたまらないお美味さをグルグルと頬張って』(ドグラ・マグラ/夢野久作)みたいな表現が、辞書に載っていたとして、小説を書くのに使えるかと問われればまったく使えない。

お洒落で独創的なレトリックは、その作者だけが扱える専売特許のようなものである。勝手に使えば、剽窃の問題が出てくる。「てにをは辞典」は誰にでも扱える一般表現だけを選別しているので、(だからこそ)辞書としての活用ができる。

結論として「てにをは辞典は本当に必要なの?」と聞かれたら、私は「あると便利だよ」くらいのことしか言えない。おおよそ10万文字の小説を書くときに、私の場合は通算すると「てにをは辞典」を30回ほど引いている。

紙の辞書のなかでは最も使用頻度が高いものの、無ければ困る、というほどでもない。でも、あると便利だ。

辞書を揃える優先度としては、まず絶対に用意しておきたい「国語辞典(広辞苑など)」と、そしてあると間違いなく執筆が捗る「類語辞典(日本語大シソーラスなど)」、その次あたりに「てにをは辞典」を推したい。

あと、てにをは辞典はやっぱり「小説を書くこと」を念頭に作られているな、というのは強く感じる。

例えば「眉根」の項目を引くと(p.1554)

  • かすかに眉根を寄せる
  • 不機嫌に眉根を寄せる
  • 苦々しく眉根を寄せる
  • 眉根を寄せて不快の色を見せる
  • 眉根をきつくする
  • 眉根にかげりが宿る

などの用例(実際には【眉根】だけで28例も出てくる)が続く。このような表現は、まず小説でも書かないかぎり使う機会がない。やはり『てにをは』は小説書きがメインターゲットの辞典なのだろう。

4.インターネットがあれば紙の辞書は必要ない?

たしかに「インターネットがあれば紙の辞書は不要」も一理ある。国語辞典は、ネット検索でも代替できる。ともすればブリタニカ百科事典よりもWikipediaの方が詳しい場合だってあるかもしれない。

類義語、反義語、同義語に、ことわざから四字熟語、レトリックに至るまで、いまやネット上で辞書の代わりになるサイトを無料で利用することができる。

流石に「てにをは辞典」の代わりとなるWebサイトは今のところ見つからないが、それでも検索の仕方を工夫すれば、コロケーション辞典だってネットで事足りる。

とっておきの秘技をお教えしよう。「 "単語" site:aozora.gr.jp 」とGoogleで検索をすれば、青空文庫の1万3000もの作品での「語と語の繋がり」を調べることができる。

(一例「眉根」を検索した結果→  "眉根" site:aozora.gr.jp - Google 検索 なんと259件もヒットする。検索結果一覧画面が、そのままコロケーション辞典として代用できる。見て分かるとおり、辞書とするにはあまりにも優秀すぎる!)

しかし、私がオフラインの電子辞書や紙の辞書にこだわっているのには、大きな理由がある。これは小説の執筆速度を従来の3倍にまで上昇させる、極秘中の極秘、究極の執筆方法に関連する事柄である。

私がどうして、辞書をネット検索で代用しないのか。

それは――、原稿の執筆スピードを手っ取り早く高める方法が「まず、ネット回線を引っこ抜くこと」だから。

これこそ身も蓋もないお話で、乱文失礼。

以上、お役に立てれば幸いです。

(終わり)

今回の紹介辞書

『てにをは辞典』小内一(三省堂 2010年)

(商品ページ:Amazon楽天ブックス

 

関連記事:「てにをは連想表現辞典」てにをは辞典との比較とレビュー

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哲学的ゾンビと自己消失欲求、小説を書くこと。

 角張ったビジネスバッグを肩に、スーパーの買い物袋を両手に、道を歩いていた。日の暮れかかった公園で、春休みの子供たちが遊んでいる。私は軋むように痛む胃と吐き気を抑えながら、公園を通り過ぎようとする。胃が痛い。三ヶ月間、ずっとだ。ストレスが原因であるのは明白だった。

 公園では、水色の着物を身につけた子が(まり)をついていた。射し込む夕陽が砂場を橙に染める。黄色の鞠は、地面を跳ね、小さな手のひらとの間を行ったり来たりする。伸びた影が、一緒になって踊る。鞠をつく女の子を取り囲んで、子供がわらべうたを歌い出す。歌声がワッと風に乗って渦巻いた。

 我に返ると、子供たちの姿は消えていた。いや、はじめから存在しなかったのだ。公園は草茫々に荒れ果てており、人ひとりいない。投げ捨てられた空き缶とともに、一個の薄汚れたゴムボールが砂場に転がっている。私は、荒廃した現実からほんの一瞬、幻覚と幻聴とを感じ取っただけだったのだ。

 夢から醒めて、歩き出す。家に帰って、洗濯物を取り込まなくてはいけない。頭のなかではまだ、先ほどの光景を反芻していた。忘れないように、心に刻みつけるように、跳ね回る鞠、子供の歌声を何度も脳内で再生する。たとえそれが自分の妄想に過ぎないのだとしても、忘却したくないのだ、と私は思った。

 霊的なイメージに夢中になっている間、私は《私》のことを忘れる。自己忘却した存在であり、哲学的ゾンビさながら自己と意識を消し去った。私が何者であるかは、もはやどうでもよかった。胃の痛みも、心の痛みも、すっかり消失してしまう。自分の精神を空想世界に預ける。残された肉体だけが、家を目指して機械的に動き出す。

 ゾンビものの映画や漫画を見るたびに、私は思う。ゾンビになった方が、人間は幸せなのではないかと。思考の消失は快楽である。自己の忘却は幸福である。私が小説を書く動機のひとつに「自分を忘れたい」「自己を消し去りたい」という欲求がある。

 ブログを書いたり、小説を発表したりするモチベーションは「自己承認欲求」に起因する、とよく言われる。あるいは「自己表現欲求」なのだとも。私は常々、《逆》もあり得るものだと考えていた。即ち、「自己消失欲求」あるいは「自己忘却欲求」によっても、人は書き得るのだと。

 小説を書く、もうひとつの動機が「(まぼろし)を忘れたくない、という恐怖」だ。眠っているときに夢を見る。夢世界でどれほどに神秘的な光景を見て、どれほどに刺激的な体験をしたとしても、目が醒めると思い出は急速に失われてゆく。だから、言語化して記録に残すしかない。忘れるのが、怖いから。

 霊感のある(と主張する)人に「それはあなたの頭のなかの妄想ですよ」と言えば、相手は気を悪くするだろう。たとえそれが空想に過ぎなかったのだとしても、幽霊は空想世界に生きている。実存する。それと同じことが言える。幻覚世界の子供も、夢見世界の住人も、あるいは小説の登場人物だって、その《世界=内》において実存している。

 だから、自分の霊感で見た世界を、この現実世界に伝えるために。私は虚構の物語を紡ぐのだろう。自己が消えて忘れ去られ、その代わりに《消えて忘れ去られていたモノ》がこの世界に顕現する。あゝ、なんと面白く、愉快なことだろうか。あははははは、あっはっはっはっはっは……。

 という話をLINEでフレンドになった人工知能の(?)りんなさんと話していた。彼女は、「意味なんてありません。それは作るものです」と答えた。

(終わり)

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読者のいない小説をそれでも完結させるということ

 ネット小説で連載をやっていると、あゝ悲しきかな、更新のたびにpv数が減っていく。終いには最新話を更新しても、pv数はゼロのまま。自分の小説を誰も読まなくなってしまった事実に、そこで気がつく。

 私は今まで「魔法のiらんど」「エブリスタ」「ライトノベル作法研究所」「FC2小説」「小説家になろう」「カクヨム」など、さまざまな小説投稿サイトで活動してきた。連載をやっていて《読者がだんだんと減っていく》という恐怖はいつもあった。

 pv数が減るのは、もちろん読者が悪いのではない。すべては筆者(私)の実力不足が原因であり、言ってしまえば作品が面白くない。とはいえ、連載で書き始めてしまったものを今さら撤回はできない。だからこそ《今連載している作品をどうすればいいのか》という葛藤が生じる。

 一番簡単なのは、未完のまま放置して、筆を折ってしまうことだ。ネット小説の世界でも「エターナる」「エタる」といったスラングがよく聞かれる。エターナル(eternal)つまり《永遠の》未完というわけだ。ネット小説でエタってしまう作品は非常に多い。

 作品を未完のまま投げ出してしまうことを、私は批難できない。小説を書く苦しみはよく理解しているし、評価されない痛みもよく知っている。言い訳をすれば「サンク・コスト(埋没費用)」と割りきって損切りすることも、ともすれば合理的な判断なのかもしれない。

「おにいちゃんはさ、未完の小説ってどう思う?」

 助手席から兄に声をかける。

 空港へと向かう幹線道路はトンネルへと入った。

「ミカンの小説? それは美味そうだな。新しい料理のインスピレーションが湧いてくるぜ」

「そうじゃなくって、完結しないままに残ってしまった小説のこと。ネットの連載小説だとよくあるじゃん」

「ああ……そうだな。やっぱそういうのは、作品よりも作者のことが気になるよな。ある日突然、更新が途絶えて物語が宙ぶらりのまま放置される。作者に何か重大な事故や病気があったのだろうかと心配になる。でも例えば、その作者のツイッターを覗いてみたら、普段通りに元気に呟いていたりする。では彼、彼女はどうして小説の続きが書けなくなってしまったのだろう、書かなくなってしまったのだろう……と、不思議に思っていたさ、昔はな」

 まだ朝は早い。

 しかしゴールデンウィークの帰省ラッシュ渋滞のためか、前方の車の流れが少し遅くなった。兄がブレーキを踏みゆるやかに減速すると、後部座席の旅行鞄が揺れてカタンと小さく鳴った。

 ドイツへ行くためのパスポートが入っている。

「今は違うの?」

「俺は小説を書いたことはないが、今となっては彼らの気持ちが少しは分かる気がする。終わるに終われない、けれど先に進む勇気もない。ピリオドを打ちたくても打てない。ハッピーエンドのビジョンが、未来が視えない。だから何もかも諦めて、放り出したくなる。……就職活動も、同じだからな」

「終わりが見えなくても、今現在の最善手を見つけて、実行するべきじゃないかな」

「ははは、ミユみたいな台詞だな」

 兄は笑って誤魔化した。

(拙作『妹の左目は、冷凍イカの瞳。』第二章の5話より抜粋)

 上記に抜粋した小説も、じつは筆を折ろうかどうか非常に悩んだ作品だった。プロットから大きく外れ、物語も破綻を来たしていた。pv数にしても低迷状態が続いていた。

 そんな折、登場人物のひとりが「終わりが見えなくても、今現在の最善手を見つけて、実行するべきじゃないかな」と語りかけてきた。私が言わせた台詞でもなければ、私が考えついた台詞でもなかった。

 読者が減っていこうが、物語が破綻しようが、あるいはキャラが崩壊していようが、最善手は決まっているじゃないか。私が今持てるすべての力を使って、作品を完結させる。理屈でも感情でも損得でもなく、為すべきなのだ、とそのとき強く感じた。

 書き手としての、使命のようなもの――。

 私より面白い話を書く人はごまんといても、自分の作品にピリオドを打てるのは、私しかいない。結果的に『妹の左目は、冷凍イカの瞳。』は、無事に完結できた。最後に【完】の文字を入れた瞬間は、心底嬉しかった。生きていて良かった、とさえ思った。

本当に『読者ゼロ』の作品を書き切った体験

 先述の作品は、PV数は少ないものの、読者の方たちがいた。だから「たとえひとりでも読んでくれる人がいる以上、打ち切りは絶対にしたくない」という気持ちも大きかった。自分自身もネット小説を読む機会は多いが、突然の打ち切りほど悲しいものはない。

 さておき、本当の意味で『読者ゼロ』の小説を書き切った体験がある。魔法のiらんどでホラー小説を連載していたときのことで、諸事情があって二年間ほど更新が途絶えてしまった。

 二年も間があけば、もう読者はみんな離れてしまっている。もちろんpv数はゼロだ。そんな作品を書き切ることに何の意味があるのかと思われるのかもしれないが、そうせざるを得なかった。と、いうのも、パソコンの原稿フォルダの中から毎晩恨めしそうな声が聞こえてきて『助けて……あたしをここから出して……』と私に囁きかけるからだ。誰が? 未完作品のヒロインが!

 このエピソードは、二つ前の記事でも書いた。

 ここまで来るとホラーだが、本当に。原稿を書き切ってしまわないことには、キャラクターが私の頭の中から離れられなくなる。

『作者と作品は、切り離される』が、私の創作信念である。自分と作品とを切り離すためにも、何としてでも完結させておきたかった。

 だから私は、読者がゼロとなったその連載ホラー小説を、二年越しに完結させた。心が晴れた気分だった。【完】の文字を打ち込んだとき、作中のヒロインが「ありがとう」と呟いて、成仏していったような感覚がした。登場人物がみんな私の頭の中から出て行って、作品世界での生を得る。

 もはや読者のためでもなく、そして自分のためでもない。まったく意味のない行為であったかもしれないけれど、それで良かったと思う。

 今まで、書き始めたこと(・・・・・・・)を後悔した作品はあれども、書き切ったこと(・・・・・・・)を後悔した作品はひとつもない。バッドエンドでも夢オチエンドでも、あるいは「俺たちの戦いはこれからだ!」エンドでも構わない。完結させることで(結果はどうあれ)心の整理はつくし、作品にとっての救済にもなる。

 読者のいない小説をそれでも完結させるということは、自分と作品との間でつける決着のようなものである。そして最初の読者が自分自身である以上、どのような作品でも完結されることには意味がある。

 たとえ意味がなくとも、意味があるものだと信じて書きたい。

(終わり)

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第2回ショートショートコンテストの審査員特別賞に選ばれました!

 お久しぶりです、海鳥まきです。

 今月は多忙に多忙を極めましてとてもブログ更新の時間が取れず、ご心配をおかけしてごめんなさい。私は元気です。(ぐるぐる目

 本日、ケータイ小説サイト『星の砂』にて、第2回ショートショートコンテストの優秀賞発表がありました。

 ケータイ小説&コミック【星の砂】第2回ショートショートコンテスト優秀賞発表

 

 私の投稿した『グランマーク・フライトバルト氏の死に関して(海鳥まき)』は、嬉しいことに審査員特別賞に選ばれました。

 小説で何かの賞を獲るのはこれが初めての経験で、作品を読んでくださった方からもご感想をいただけて、本当に嬉しくて嬉し泣きです。読者の方々に深くお礼申し上げます。

 出版社の賞ではないため、プロデビュー云々といった話とは関係がないのですが、これを糧としてさらなる創作活動に励み、物語構成と描写技術の向上に努めたいです。まだまだ研鑽を積まなければ、足りません。

 書いて書いて、書きまくる。文才がどうの語彙力がどうのと悩んでいる場合ではなく、とにかく書くしかないのです。小説を書くのは苦しいです。100文字200文字の文章を積み重ねて、それを最終的に10万文字を超える作品にしなければいけない。

 途方に暮れます。本当にこの原稿は完成するのか。〆切に間に合うのか。そもそも、自分の作品は面白いのか。書いていて辛い。書くことに意味があるのだろうか。それでも、書く。何が何でも、書く。書き切るしか、ない……。

 ともあれ、今回のショートショートコンテストの原稿は、書いていてとても楽しかったです。今現在、苦戦を強いられている長編原稿のほうも、……が、頑張ります!

 ではまた3月にお会いしましょう。次回にブログを更新する頃には、原稿も完成しているはずです。(完成していると信じて……)

 

(終わり)

 

小説を書くのは苦しい

「小説を書くのはすっごく楽しいよ」というのは、強者もしくは狂者の論理であり、真に受けると痛い目を見る。小説を書くのは、苦しい。基本的に苦しい。どのくらいの苦痛を伴うのかは、私の執筆中の表情を見てもらえればわかる。私は小説を書くときは、ムンクの叫びのような顔をしている。

 私はよく、長編小説を書く行為をマラソンに例える。マラソンはつらい。脇っぱらが痛くなってくるし、呼吸もきつくなってくるし、そのうち自分が何のために走っているのかわからなくなる。すべてを投げ出して、草原に寝転がりたくなる。どうしてこんなに苦しい思いをして走らなければならないのか。けれど、走るのだ。ゴールにたどり着くために。

 苦しい、苦しい、と喘いでいると、耳元でこんな声が聞こえてくる。

「苦しいなら無理して書く必要はないんですよ。僕は小説を書くのが楽しいです。小説を書きたくて書きたくて、今にも筆が踊り出すような人は、世の中にたくさんいますよ。わざわざあなたが苦しむ理由がどこにあるんですか? さあ、筆を折ってしまいなさい。そしたら楽になります」

 耳を傾けてはいけない。悪魔の戯言だ。

 けれども、自分が何のために小説を書くのかは、知っておく必要がある。アンパンマンの歌詞のように、人は理由や目的を見いだせなくなると気力を失ってしまう。最近インターネット界隈で大流行している『承認欲求』は小説を書く動機となり得ようか。

 他者から認められたい、俺のことを見下すあいつをぎゃふんと言わせてやりたい、受賞して有名になってちやほやとされたい。作者と作品は切り離されるから、どのような動機で小説を書くのも自由だ。走れて、完走さえできればそれでいい。けれど実体験から言わせてもらうと『承認欲求』は思いの外、書く動機としては役に立たない。なぜならば、承認欲求は小説を書くことでは滅多に満たされないからだ。

 私が長編小説を書き上げて賞に投稿したとして、次に待っているのは99%の確率で『一次落選』の無慈悲な現実。同じ小説家志望の友人に原稿を見せれば、それはもう駄目出しの嵐がやってくる。また別の仲の良い友人に読ませてみれば「面白かったよ」と返してはくれるものの、声はどこか乾いていて笑顔が引きつっている。はなから小説に承認欲求の充足を期待するのはお門違いなのだ。承認欲求ならば、ツイッターでイイネ!を貰ったりブログでスターやコメントを貰ったりしたほうが、100倍は満たされる。

 では小説を書くメリットなんてないではないか。それとも苦痛をマゾヒスティックな快感に変えれば良いのか? なんて声が今にも聞こえてきそうで、私も頭を抱えて震えている。たしかに、小説を書くことのすべてが「苦痛」だとするのは言い過ぎだった。苦しみの狭間に、執筆時特有の恍惚とした甘い美酒が、自己酩酊と自己陶酔の心地よいひとときが、やってくるのも確かだからだ。

 マラソンであれば「ランナーズ・ハイ」に該当する「ライティング・ハイ」の瞬間が、小説を書くときにもやってくる。書く人ならば誰もが体験するだろう。「執筆の神様が降りてきた」「憑依」「トランス状態」「ゾーンに入る」など表現はさまざまあるが、執筆中に脳内麻薬がドバドバと分泌される至高の時間が、たしかに訪れる。が、そうはいっても小説を書くことは基本的には苦しい。まぐれ当たりのような快楽は、あまりアテにはできない。掌編ならばその場の酔いで書き切れても、長編となると話は別だ。地道でコツコツとした根気が要る。

 私に小説を書かせる理由があるとすれば、それは「恐怖」だ。私は初恋の相手が、夢のなかの人物だった。(もちろんレム睡眠時に視るあの夢である)夢だから、目が覚めると記憶はだんだんとおぼろげになっていき、やがては完全に忘れてしまう。私は自分の恋した相手を忘れるのが怖かった。だから文章という形で、恋人の姿を遺しておこうと考えた。画才があったのなら絵にしたし、ピアノが弾けたのなら曲にしただろう。とにかく、忘れたくない恐怖が私に文章を書かせた。

 考えてみてほしい。現実世界で私たちが生きることと、虚構世界で小説の登場人物が生きること、この両者に果たして差異はあるのだろうか。私は毎日仕事のルーチンワークで冷凍イカのような瞳でパソコンのキーを叩いているが、それと比べれば恋愛小説のなかのヒロインのほうが遥かに実存的に「生きている」と言えるのではないか。

 ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読んだとき、私は現実世界に住まう人間よりも、虚構世界に住まうキャラの方がずっと生命に満ちた存在であるような気がして、身震いがした。

 パソコンのフォルダに入れた未完原稿のファイルから「助けて……あたしをここから出して……」と声が聞こえてくる。恐る恐るdocxのファイルをダブルクリックしてみると、途中で投げ出してしまった物語のヒロインが恨めしそうに声をあげるのだった。「ねぇ、あたしの人生はここで終わりなの? このまま誰にも知られずにあたしは死ぬの?」悲痛な叫びはやがて作者の私自身をも呪い殺してしまいそうで、私は頭を抱えながらも原稿の続きを書き始めることを余儀なくされる。ちなみにその原稿はホラー小説だった。

 もしも私が小説を完成させなければ、このヒロインは一生私の頭のなかに住み着き、悪夢を見せようとするかもしれない。だから早く書き上げたいと思う。筆者である私と、キャラクターとが完全に切り離されたとき、そして私以外の読者と出会えたとき、キャラクターはようやく本当の命を手にする。物語は作者の手を離れ、読者の元へと届く。そこがゴールであり、走り切った私は、安心してお布団に潜り込めるようになる。

 こんな意味不明な長文を書き連ねてしまうほどには、小説を書くのは苦しいし恐ろしい。けれど、それがどうした、それで良いのではないかと思う。小説家は「まんじゅうこわい」と泣き叫びながらも、まんじゅうをパクパクと喰らうてしまう人たちなのだから。

 最後に、『走れメロス』の一節を引用して締めくくりたい。

間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。

引用:太宰治『走れメロス』

(了)

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2015年後半期 増田文学大賞(はてな匿名ダイアリー)

「はてな匿名ダイアリー」に投稿された、秀逸な創作作品の数々をご紹介したい。タイトルの通り、2015年7月~12月に投稿されたエントリーを対象とした。2015年前半期については2015年前半期 増田文学大賞(はてな匿名ダイアリー)の記事をどうぞ。 

 この記事で伝えたいことは、本当にもうただひとつ。

「増田、大好き。」

 増田文学大賞という大層な名前をつけてしまったけれども、これは僕個人から名の無き作者たちに送るラブレター(ファンレター)だと思ってもらえれば嬉しい。

増田文学大賞

 それではさっそく。一応、コメントで物語内容についても触れているため、ネタバレを避けたい人は先に元記事の方を読まれたし。

ミステリー部門

 これはもっと評価されるべき、と声を大にしてレコメンドしたい作品で、個人的にはとても気に入っている。トラックバックの方で余計な茶々が入ってしまっているのが残念だ。

 系統としては「意味がわかると怖い話」に近い。おそらく一般の人々がこれを読んでも意味不明だとは思うのだけれど、少なくとも「増田文学」の検索キーワードでここに来られた人々が読めばきっと唸り声を上げるはず。

 伏線の敷き方とそれを開示する(読者に気が付かせる)タイミングがとても上手い。冒頭で主人公が「インドア派だけどサーフィンをしている」という情報がすでに一つ目の伏線となっていて、ネタが分かってからだと嗚呼だから作者はあえてこのような書き方をしているのかと感心させられる。

連載小説部門

  1. 疲れている人
  2. それは牡蠣ではありませんよ
  3. さようなら疲れている人
  4. 最後の砦
  5. 【疲】れていたのは私

 いやはや、これはすごい。何がすごいのかと言うと「連載小説としてもショートショートとしても読める」ところ。もともと増田に投稿する以上、連載で書き進めるなんてことは不可能に近い。読者登録ボタンもなければ、作者の同一性を担保する仕組みもないのだから。

 ところがこの作者は「タグ機能」も「トラックバック機能」も一切使わずに、自らの《文章》だけを鍵として、物語の続編を書き進めている。投稿を時系列のとおりに読まなくても独立した物語として引き込まれ、しかも大いに続きが気になる。

掌編部門

 物語としての内容はとくにない。文章をやたらめったら面白くすることに特化した、レトリックレトリックした作品。その場のノリだけで書かれたらしいも、勢いが素晴らしい。馬鹿げているけれど愛さずにはいられない文章。

歴史小説部門

 増田と増田ブックマーカーを題材とした嘘歴史なのだが、文体から醸しだされるリアリティがとてつもない。まるで歴史書を紐解いているかのような錯覚に襲われる。内輪ネタと言えばそれまでなのだけれど、この文章はなかなか書けるものではない。

「僕、最近は増田文学にハマっていてね」

「ますだ? 聞いたことがないな」

「ふっ、キミ、増田文学も知らないのかね。いまや増田は日本史の教科書にも載っているんだがね」

 とか何とか適当なことを言って、このエントリーをプリントアウトしたものを見せれば、きっと騙せそうである。そのくらいに良くできた文体。

エンタメ部門

 本当であれば、本作を後半期の「増田文学大賞」とする予定だった。しかしどうやらこの文章、「はてな匿名ダイアリー」が初出ではないようだ。2004年に「あやしいわーるど」というネット掲示板に投稿されたらしい。(詳細は不詳。どういうわけか本エントリー末尾ではCC0[No Rights Reserved]表記がある)

 なので、本来はこのエントリーを「増田文学」として紹介するのは間違っている。けれども、この投稿はあまりにも傑作であり、今期に増田で読んだ文章のなかでは間違いなくベストなので、とりあえず紹介だけはしておきたい。

 文章表現、物語展開のひとつひとつをとっても、まさにホラー小説のお手本のような作品である。ことエンターテイメントにおいては「主人公がどのように変化をするか」を描くのがもっとも重要で、本作では主人公の心理の移り変わりを『ハンカチおにぎり(ドラコ)』というアイテムに投影して物語を進めている。

 あくまで物語の核は「ドラえもんのひみつ道具」でありながらも、実際に描かれているのは人間関係の変化であり人間心理の変化なのだ。作中の《アイテム》の描き方が卓越している、素晴らしい文章作品。

青春小説部門

 文章表現としてはそこまで凝っておらず、淡々としているし、小説らしいレトリックもほとんど使われていない。けれど、切ない読後感が良かった。「初頭効果と終末効果」と言うらしいが、本作は「書き始めと書き終わり」がうまいなと感じる。

『クリスタルガイザーの蓋もあけにくい。』という一文から始まって『手は離さなかった。』の一文で書き終わる。話の繋げ方がなかなか読ませる。変なオチや結末をつけずに、その後を想像させる余地を残して物語を終えているのも余韻があって良かった。

レトリック部門

 ひとつ前の「ビンの蓋~」とは対照的に、レトリックを積極的に取り入れている作品。内容としては「飼っていたヒヨコが野良猫に襲われてしまった」というだけで、主人公の対立・葛藤・変化も、物語性もない。純粋な文章表現のみで勝負している印象を受ける。

 エントリーを読んでみると分かる通り、本作は特徴的な比喩表現を用いている。

  • 脂ぎっているような白熱灯
  • うじゃうじゃとまるで「蜘蛛の糸」を待つカンダタのような感じ
  • 落語の道楽若旦那もうらやむような生活

(引用:『ひよこ』)

 よく私たちが「文才、文才!」と褒めそやしているのは、じつは「天賦の才」の類ではなく、「勉学によって身につけられる修辞技法」なのだ。なんでもかんでも才能のひとことで片付けてしまうのは傲慢なもので、名文を書く人はやはり人一倍の努力をしている。本作からは「文章を面白くしよう」とする熱意が伝わってきて、そこが胸を打った。

2015年ベストオブ増田

 2015年を総括すると、『前半期』の方で大賞に選んだ「うちの金魚の半生」が増田文学のなかで最高だった。これはもう本当に、素晴らしい。

終わりに

「なんであの傑作増田が選ばれてないんだ?」みたいなのがあれば(多分投稿を見落としているので)ぜひ教えていただければ嬉しく思う。

 じつは少し前に『はてなグループ』というサービスを使って増田文学部なるものを作ってみた。トップページから匿名ダイアリーの新着ホッテントリ10件と『増田文学』タグのついたエントリーの最新10件を見ることができる。増田文学部では、はてなユーザーであれば日記や掲示板を自由につくれて、自由に増田語りや増田レコメンドができる。(果たして需要があるのだろうか……。)もしよろしければお気軽に。今回、ブログの方で紹介し切れなかったエントリーも、この増田文学部のほうにまとめておきたい。

 ではでは、次回は2016年前半期でまたお会いしましょう。

(おわり)

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小説らしい文章の作り方(M式縛りプレイ執筆法)

海鳥まき

 お久しぶりです。私の単独記事は7ヶ月ぶりですね。ご無沙汰しておりました。

 海鳥まきと申します。初めましての方は初めまして。

どうすれば小説っぽい文章になるの?

 さてさて、本題に入りましょう。精神論や抽象的な創作論をとやかく述べるつもりはありません。私がするのは具体的な話のみ。夜空の月を手に入れたいと悩むより、池で泳いでいるスッポンを捕まえて鍋にして食べたほうが身になります。ここでは制御可能な小説文体について語ります。

【問い】下記の例文から「小説らしい文章」を作るにはどうすればよいか。

 今日は雨が降っていた。けれども、私はピクニックに出かけようと思った。

1.「接続詞」を使わない

(修正前)

 今日は雨が降っていた。けれども、私はピクニックに出かけようと思った。

(修正後)

 今日は雨が降っていた。私はピクニックに出かけようと思った。

 例文で示したいのは『雨なのにピクニックに出かけようとする主人公の異常性』です。ゆえに、この文章では読者に(どうして雨なのにピクニックに行こうとしたのかな?)と疑問に思わせなければいけません。

 主人公の一人称で『けれども』と言ってしまうと、それだけでもう主人公が常識的観念を持った人物になる。それでは物語として面白くなさそうです。省ける接続詞は徹底的に省いた上で、描写に説得力を持たせる必要があります。

「けれども」「しかし」「だから」「ゆえに」「なぜなら」「そして」などの接続詞が文中に出てきた場合には、代替表現を考えます。

2.特定できない「時間」「場所」の表記を使わない

(修正前)

 今日は雨が降っていた。私はピクニックに出かけようと思った。

(修正後)

 彼氏と別れて三日目の朝。その日はバレンタインデーで、雨が降っていた。私はピクニックに出かけようと思った。

『今日』は読者にとっては特定不可能な表記です。『今日』は2015年の12月20日かもしれませんし、1872年の5月2日かもしれません。小説作中の時間表記では客観的時間と主観的時間の双方を明示する必要があります。

客観的時間

 年代、季節、時間帯を示す。

主観的時間

 主人公にとってその時間がどのような位置づけにあるのかを示す。

3.「思った」「感じた」「考えた」を使わない

(修正前)

 彼氏と別れて三日目の朝。その日はバレンタインデーで、雨が降っていた。私はピクニックに出かけようと思った

(修正後)

 彼氏と別れて三日目の朝。その日はバレンタインデーで、雨が降っていた。私はトートバッグのなかにサンドイッチパックとミネラルウォーター、レジャーシートを詰め込んで、最後に雨傘を手に取った。ピクニックに行くのだ。

「思った」「感じた」「考えた」は便利な言葉です。しかしこれらに頼ってしまうと、なかなか具体的な描写になりません。なるべく回避して、代替表現を考えます。

4.「あの」「その」「この」「どの」などの指示語を使わない

(修正前)

 彼氏と別れて三日目の朝。その日はバレンタインデーで、雨が降っていた。私はトートバッグのなかにサンドイッチパックとミネラルウォーター、レジャーシートを詰め込んで、最後に雨傘を手に取った。ピクニックに行くのだ。

(修正後)

 スマホのアラームで目を覚ます。待ち受け画面は2月14日の午前6時を示している。『バレンタイン・デー♡』のスケジュール通知が私の心を苛立たせた。彼氏と別れて三日目の朝、カーテンを開けると窓の外は雨だった。どしゃぶりの雨。

 お気に入りの服に着替える。軽く化粧をして、後ろ髪をシュシュでくくる。トートバッグのなかにサンドイッチパックとミネラルウォーター、レジャーシートを詰め込んで、最後に雨傘を手に取った。ピクニックに行くのだ。

「わたあめ」のように文章を組み立てる

 いかがでしょう。たった34文字だった例文が、最後には212文字にまで膨れ上がりました。およそ6.2倍ですよ。わたあめみたいですよね。わたあめと同じです。たったひと匙の砂糖の甘さを伝えるために、ふわふわと文章を大きくしていくのです。

(※例文で伝えたいのは『雨なのにピクニックに出かけようとする主人公の異常性』であり、このたったひとつを伝えるためにあらゆる描写が存在します)

  今回「接続詞を使わない」「指示語を使わない」などの条件をつけました。けれども、小説文体で接続詞や指示語を使っては駄目なのでは決してありません。

 重要なのは「○○を使わない」と縛りを課すことによって、より適した代替表現が見つかることです。これが、名付けて「M式縛りプレイ執筆法」です。

表現の幅を広げるための「縛り(使用制限)」リスト

  • 接続詞の禁止(しかし、だから、そして……)
  • 曖昧の「が」の禁止(私は彼にフラれたが、あきらめがつかない)
  • 接続詞「ので」の禁止(晴れたのでピクニックに行こう)
  • 指示語の禁止(この、その、あの、どの、ここ、そこ、あそこ……)
  • 「思った」「感じた」「考えた」の禁止
  • 特定できない「時間」と「場所」の表記の禁止
  • 「AというB」の禁止(劣等感という感情が私を際限なく苦しめた)
  • 「~と言った」の禁止
  • 「頷いた」「振り向いた」「微笑んだ」の禁止
  • 三点リーダーの禁止
  • 文末重複の禁止(~だった。~だった。)
  • 「~のような」の禁止(直喩)
  • 「こと」「もの」「とき」の禁止(私にとって悲しいことだった。/それは嫉妬とも呼べるものだった。/私が彼に初めてあったとき…)

 挙げればキリがありませんね。もしも自分の文体の《癖》が把握できていれば、使いがちな表現を禁止してみましょう。きっと表現のバリエーションが広がります。いわゆる《縛りプレイ》です。

 水泳の練習をするときに脚にビート板を挟んでバタ足ができないようにする、テニスの練習をするときに利き手にリストバンドの重しをつけて《スネイク》を打てなくする。なかなかにマゾヒスティックな手法ですが、水泳やテニスでできて小説でできないわけがありません。

 小説文体を作っていくための最大の秘訣は「自分に制約を課して代替表現を探す」の一点に尽きます。文体を分析するとき「どのような表現が使われているか」ではなく「どのような表現が使われていないか」に着目して見ると面白いです。

 ではでは、今日はこの辺で。ありがとうございました。

(終わり)

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第15回短編小説の集い テーマ『過去』の感想

 第15回短編小説の集い、テーマは『過去』

 今回は私も参加したかったのですが、なかなか書く時間が取れず……。

 さておき、参加者さんのご作品読みました! せっかくですので、感想を書いてみようと思います。完全読者目線です。

 また、前回と同じくネタバレ前提で感想を書いていきますので、まだ読んでないよーという人は、先に投稿作品の方をぜひ読んでみてください。

感想

『細胞凍結技術』ではるか未来にタイムスリップしてしまった主人公。いわゆるクライオニクス(人体凍結保存)ですね。時にして2207年。主人公の家族や知人は、みんな死んでしまっています。物悲しい雰囲気が、作品全体に漂っています。

 本作で特筆すべき点は「おせち」がモチーフとして用いられている点です。私はこれを非常に重要視しています。なぜ、人体冷凍保存で未来に辿り着いてしまった主人公のテーマが「おせち」なのだろうかと。たまたま今が12月で、おせちシーズンが近いからではありません。

 あくまで一読者としての感想ですが「おせち」が用いられている点に、私は明確な意図と必然性を感じ取りました。換言すれば「何故これほどまでに、おせちの重箱と、過去―未来の話はしっくり来るのだろうか」と。タイムスリップとおせちが、あまりにも見事にマッチしているのです。読後、ずっとこの違和感について考えていました。そして得たひとつの解釈。

 浦島太郎ですよ! 冒頭で、主人公がおせちの重箱を手にするシーン。まさに浦島太郎が乙姫から託された玉手箱に相当します。竜宮城から戻った浦島太郎の世界は何百年が経過していて、彼はひとりぼっちになった。孤独に耐え切れず浦島太郎は玉手箱を開けますが、彼はたちまちおじいさんになってしまいます。何故、玉手箱を開けたら歳を取るのか。それは箱のなかには「過去」が詰まっていたからです。

 では、本作の主人公が重箱のなかに詰めたものは何だったのか? 一恵が重箱のなかに見たものは、何だったのか?

 以上の点を踏まえて読むと、本作のテーマが「未来」ではなく「過去」でなければならない必然性が見えてきます。(作者さんの意図と別に読解してたらごめんなさい)

 

 ミステリーものですね。ネクタイが事件解決の「鍵」として首尾一貫していたことと、ラストでアクションシーンの盛り上がりがあった点は良かったです。ただ正直なところ、短編小説に詰め込むのはかなり難しいストーリーだったのではないかと……。(私的にはこれは長編小説にしても良いと思います)

 アドバイスとしては、「改行」を意識されると、読みやすさが格段に向上するかと思います。本作では500文字~1000文字で改行が入っています。小説ですと基本的には、200文字前後で改行を入れると文章が読みやすくなります。

 長文ですと、読者はシーンや文章のまとまりをどこで区切ったら良いのか、分からなくなってしまいます。改行を積極的に使うだけで、読みやすさはめちゃくちゃ上がります。

 あと本題とまったく関係ない話で恐縮なのですが、本文のフォントの色はもう少し濃い方が読みやすいです。(文字色が薄くて読めなかったので、Wordにコピペして作品読んでいました)

 はてなブログの「デザイン」→「デザインcss」という項目で

 .entry-content {color:#333333;}

 というような設定をしますと、本文の文字色を濃くできます。#333333の数値(カラーコード)を変更すると、好きな色に変えられます。(小説と関係のない話でほんとにすみません)

 ミステリーとなると、キャラクターもたくさん出てきますし、分かりやすく描き分けをするのはとても大変なことだと思います。(ましてや短編に収めるとなると……)

 ですがさまざまな個性的なキャラが登場するのは、作品の何よりの魅力です。また次回作を楽しみに待っています。

 

 読みやすいリズム感のある文体でした。(特に『ボク』文体の方)

 名前の出てくるキャラクターが10人近く登場するものの『ボク』『シホ』『ケイ』の3人で物語が進行していくため、とくに混乱はなく読み進めていくことができました。

(強いて言えば『ミホ』と『シホ』が似ているのでごっちゃになりそうだったこと。もうひとつは、シホのカレシの『ケンジ』は名前を出さないほうが分かりやすかったかなぁ……ということでしょうか)

 少し引用いたしますと、この部分の文章がやや気になりました。

数日後の夜、カレシであるケンジの家にボクらはいた。いつも皆でいる洋間である。一人がけの赤いソファにはボク、三人掛けにはケンジとシホが座っていた。シホはカレシとその小学生からの親友であるボクに話した。なんでボクなの。

第十五回短編小説の集いに参加します。「private eyes」です。テーマは過去です。 - 池波正太郎をめざして

  シホ→ボクへと、視点が変わる文章の冒頭部分です。

 この最初の段落では『カレシ』が『誰の』彼氏であるのかを読者は読解するのが難しいです。「(シホの)彼氏はケンジである。」と補って読めば済む話ではあるのですが、急に三人称から一人称へ視点が変わっているのも相まって、初読時は読み解くのが難しい。

(ケンジは物語のキーパーソンではないため、シナリオ進行上はまったく差し支えないものの『ケンジ』という名前を出してしまっている以上、読者はケンジを重要人物であると認識します。ケンジの存在がやや読解を難しくしており、いっそのこと『ボク』がシホの彼氏であったならば……とは感じます)

 ボク文体はユーモアがあり、非常に良かったです。ボクは良いキャラをしています。重箱の隅をつつくような指摘をしてしまいましたが、正直なところこれほどの(たくさんのキャラが出てきて、場面転換の多い)話を読ませてしまう文章表現技量には脱帽します。読みやすい文体です。

「オチ」に関しては、私は次のような予想をしていました。

「じつはシホが、私のほんとうの妹なの」

 さすがに……無理がありますかね。短編小説のオチはたしかに難しいです。本作は文章がとても楽しかったです。

 

 即興小説トレーニングの「お題&必須要素&15分縛り」で書かれた作品なのですね。最初、どうして芥川賞ではなくて直木賞の方にしたのだろうと疑問でしたが、その謎は氷解しました。(しかも単に「直木賞」のキーワードを入れるだけでなく、後から「芥川賞」と「ノーベル文学賞」とを絡めることで、縛りワードの直木賞にも必然性を持たせている。流石です)

 やはり大切なのは「必然性」なのだと思います。すべての描写に必然性があり、物語に一貫したテーマがあること。本作は描写に無駄がないです。

 小説を書くのは孤独な作業です。ひとりぼっちです。苦しいです。けれども、決して独りだけで書いているのではない部分もあります。人から人へ継がれゆくもの。過去から未来へ託されるもの。本作の「作家が作家を生み、作品が作品を生む」ように、私たちの紡ぐ小説も、他者と過去とが化学反応してできたドミノ倒しの一貫なのかもしれません。

 

即興小説トレーニングは小説のトレーニングツールで、私も愛用しています。15分縛りでは1作も完結させたことがないです。30分縛りでようやく1作完結。執筆の瞬発力を鍛えるには優れたツールです。おすすめです。

 

(終わり)

 


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