ときまき!

謎の創作集団による、狂気と混沌の執筆バトル。

『増田文学』に見る、文才の技術(誇張法、語尾重複法)

はてな界には、自分よりもはるかに高い文章技術を持つ人たちがたくさんいる。

なかでも《増田文学》と称されるはてな匿名ダイアリーの物書きたちは、すごい。

圧倒的、文才。

正直、彼らの筆力が羨ましい。

今日はそんな彼らの文才にあやかるため、増田文学の文章技術を考察してみようと思う。続くかどうか分からないけれども本日第1回目。

ネタバレ前提となるので最初に元記事を読まれたし。

1.ユーモアの文章、ウケ狙いの『誇張法』

まず最初はこの記事を紹介したい。

彼女は精神的に弱いヒステリー持ちだった。

普段するなんとない会話で楽しく笑っていたかと思えば、ふとした言葉に引っかかって急に表情を暗くしたり怒り出したり、最終的には泣いたりする感情の起伏がジェットコースターのような人間だった。

とにかく言葉の中に地雷が多い。カンボジアも驚きの地雷原である。

(引用:はてな匿名ダイアリー『先週、彼女と別れた。』冒頭)

面白く読ませる文章は、物語内容ではなく物語言説によってユーモアを与えているケースがある。つまりは、テクストそのものの面白さを指す。

上記引用を読んでみると、増田は『比喩』を好んで文章に取り入れている。それもただの比喩ではなく、大げさな比喩だ。

  • 感情の起伏がジェットコースターのような人間だった(明喩、シミリー)
  • カンボジアも驚きの地雷原である(隠喩、メタファー)

他にも文中には「ポルナレフに切り刻まれた呪いのデーボ」だとか「義勇兵時代アフガンでイスラム兵に仲間のことを尋問された際、固く口を閉ざして負った名誉の負傷」だとか、オーバーな表現が多く出てくる。

 

このように「大げさな表現によって文章をやたらめったら面白く書こう」とするレトリック技術のことを『誇張法』という。

誇張法は乱用すればしつこくなるのは当然のこと、使い方を誤るとしらけてしまう。

書き手のセンスが問われる。

何気ない日常シーンでも面白く書けてしまう誇張法は、小説においても汎用性が高く、重宝するレトリックのひとつである。

誇張法の特徴は、喩えるモノが、すごく具体的なこと。

  • 猫の額ほどの庭
  • 目に入れても痛くないほどかわいい
  • 金持ちが神の国に入るよりかは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。(新約聖書/マルコによる福音書)
  • ~である可能性が微レ存(微粒子レベルで存在しているの意)

などなど、慣用句からネットスラングに至るまでさまざまなところに誇張法あれども、みな至って具体的なモノやコトを使って表現している。

誇張法が使えるのは必ずしもユーモラスなおかしさのある文体だけではない。

悲しみや憎しみに臨場感を与えることだって可能である。

人間のからだに駄馬の首でもくっつけたなら、こんな感じのものになるであろうか、とにかく、どこという事なく、見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせるのだ。私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。

(引用:太宰治『人間失格』)

「駄馬の首でも~」の部分が、大げさな表現となる。直前の文章ではさらに「死相にだってもっと豊かな表情があるのに(この男にはない)」と誇張に誇張を重ねている。

そもそも論として、レトリックそのものが何かを大きく伝えるための技法であるので、誇張法はなんら珍しい技術ではない。小説の文章にはありふれている。

  • 怒りに血が沸騰した
  • 恐怖に心臓が凍りついた
  • 開いた口が塞がらなかった
  • ほっぺたが落ちるほどおいしかった
  • 穴があったら入りたい気持ちになった
  • 瞬きひとつせず穴が空くほど見つめた

これらの月並みな表現をオリジナルな言い方に置き換えることができたのならば、自分だけの文体が完成するのだろう。

誇張法を堂々と使うのはけっこう恥ずかしく、勇気がいる。だからこそ、使う上での一番のポイントは「恥ずかしがらない!」

滑ったり転けたり白けたりするのは、文章を書くのにつきものだ。失敗を恐れずにどんどん挑戦してみたい。

 

2.気取らない自然な文章、『語尾重複法』

次の記事も、なかなか読ませる。

思い返せば私は生まれてから30年以上一度も生身の人を好きになったことがなかった。跡部様やルルーシュに恋をしやことはあっても、三次元の男には興味すら湧くことがなかった。

そんな私が30歳を越えて婚活を始めた。

(引用:はてな匿名ダイアリー『彼氏いない歴=年齢の喪女でしたが、婚活で知り合った人と結婚します』冒頭)

最初に取り上げた『誇張法』とは違って、この記事には気取った比喩やレトリックは見当たらない。増田はただ正直に自分の気持ちや事実を淡々と書いているのだが、だからといって味気ないといったことは決してなく、むしろ話に引き込まれる。魔法のように。

文体として特徴的なのが「~だった。」「~した。」と、語尾が「た」で連続している点。これは過去・完了の助動詞で、回想するような文章を書くときに「~だった」ばかりになることが多々ある。

文章作法の記事などを読むと「語尾が《~た。》ばかりだと単調になってリズムが悪くなります。語尾はできるだけバラして、リズムを良くしましょう」と書かれてある。

語尾重複に頭を悩ましている物書きも少なくはない。

けれども結論を述べると

語尾は重複しても構わない!

 

『妊娠カレンダー』で芥川賞を獲った小川洋子さんの文体を見てみよう。

例えば今手元にある同著者の『薬指の標本』では、「~た。」で文末を終わらせる文章が、ごく自然に何度も何度も連続して配置されている。

「~た。」「~た。」と下手に気取らず、淡々と語るからこそ、知らぬ間に物語へと惹き込まれてゆく。水が流れるように自然な文体運びであるがゆえに、レトリックを分析しようとしても正体がわからない、魔法か何かをかけられたような気持ちになる。

語尾の重複は、悪文ではない。

歴とした、ひとつの技法である。

 

まとめ

今回、増田文学から学んだこと。

  1. 誇張法を使ってテクストにユーモアを与えよう
  2. 正直で気取らない文章だって読者を魅了する、語尾重複は技法のひとつ

今回は、文体から受ける印象が正反対のものをあえて2つ選んでみた。

「文章をうまく書く方法!」のようなハウツーが世の中には溢れているが、文章術には正解がないことが2つの記事の対比からよく分かる。

結局のところ、自分の書く文章を信じて、磨き続けていくのがベストなのだろう。

文章術に王道なし!

 

(おわり)

 

参考文献


薬指の標本 (新潮文庫)

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