ときまき!

謎の創作集団による、狂気と混沌の執筆バトル。

読者からの「厳しい感想」を小説書きはどのように受け止めるべきか

ブログの運営やウェブ小説の投稿を長いことしていると、時折、読者の方からご感想をいただくことがある。

それは大変ありがたいことで、多くのコメントは僕にとっても励みになるものであるが、なかには作者に大きな精神的ショックを与える類いの感想も紛れ込んでいる。

サブブログとして運営している『Webライターとして生きる』の方にも、「てめえに物書きを名乗る資格はない。ライター失格だ!!」みたいなコメントが寄せられ、ギョッとさせられたことがある。

SNS活動だって長年続けていれば、発言内容が不意に拡散されて炎上し、クソリプがやってくることは珍しくない。人目に触れる創作をしている以上、そういったコメントにはある程度の覚悟をしておかなければいけないなと実感した。

さて、読者からの「厳しい感想」のうち、まったく無根拠に貶してくるような奴は、完全に無視して差し支えない。

しかし、無視できないものもある。

なかでも作者に大ダメージを与えるのが「かなり手厳しい感想だが、指摘には正当な根拠があり、ぶっちゃけ泣き所を突かれる」タイプの感想である。

実際に一ヶ月前、弊ブログ「ときまき!」にも匿名読者さんよりこのタイプの感想が送られてきた。

その感想は見ようによっては愛のこもった批評であり、また筆力も相当に高い。だから僕は怒っていないし、むしろこれほどの文章が日の目を見ないのは勿体無いとさえ感じている。

頂いたラブレターに返信する方法が他にないため、大変申し訳無いが下記にて全文をご紹介させていただきたい。

実際に頂いたご感想

「ときまき!」の小説講座記事がとても見やすく、参考文なども引用していて、この文章を書いた人の小説は面白いに違いないと踏んで「なろう」や「カクヨム」でさらりと見た。

しかし――失礼だが面白くなかった。

「あれ?同名の違う人かな?」と思ってしまうほど文章が読みづらく、頭に入ってこない。記事で言及のあった「遠くの景色から近くへシフトする」「不必要な表現を省く」などの技巧、技術が感じられなかった。

人にものを教える時は饒舌で巧みなのに、物語となると様変わりしてしまうなんて、と少なからずショックを受けた。地の文は読みやすいが、しかし人物の表現が荒すぎる。

以下、勝手に思ったことを書いてしまう。いち読者のつまらない意見だ。

最新作「サンタクロースと嘘つきの告白」から抜粋。

“クリスマスの静かな夜。ふんわり積もった雪が、老人のかすかな足音さえも吸い込んでしまう。老人は音もなく曲芸師のように、二階のバルコニーへと飛び降りた。”

と導入の順番を逆にするだけで映像のシフトになる。今のままだと分かりづらい。こういうことが積み重なって読みづらさにつながってしまう。

人物描写についてだが少し長くなる。

“赤色のもこもことした衣装”というフレーズだけ見て私がポンキッキーズのムックを想起してしまったのは単なる読み違いであるし、その後の“長い白髭を生やし、大きな白い袋を肩から提げた老人”という説明でサンタ衣装であることは明白なのだが、どうにも不親切だと感じた。

読者は案外、読んでくれる。しかし、丁寧に書かないと分かってくれない。

サンタと書けば分かってくれるだろう、で済ませるのではなく、サンタを知らない読者に対しても伝わるように書かなければ没頭させるのは難しい。

“襟や裾などに白いファーがついた分厚くて赤い上着とズボン、房飾りのついた帽子”とか“あごを覆い隠すような長い白髭”とか、サンタが主役であるなら描写をより細かくすべきだ。尺のとりすぎで冗長になっては本末転倒だが、読者の頭にキャラクターのイメージを発生させるには相応の気概が要ると思う。読み返して「長い」と感じて削るくらいの情熱をかけないと「読破してやろう」感は出ない。

講座などで読者を想定しているときは読みやすく書けているのに、自意識と自己表現の塊であるはずの小説で、肝心のところで読者を置いてきぼりにしてはいけない。

難しい表現を使おうとしなくていい。偉人や有名人の言葉を借りてこなくていい。もっと言うと、カッコつけなくていい。

自分の頭にあるものへの情熱を、ググったり本読んだりして掘り下げて理解して、もっともっと語って「物語」に昇華してほしい。少なくとも私はナメクジについては詳しくない。

「興味の外にあるジャンルなのに、読むだけで勝手に情報がインプットされる」ような面白いものが、書ける人だと思う。私はあなたのそういう作品が読みたい。

だからこそこんな長いメールを作ってしまった。申し訳ない。

感想を受け取って感じたこと

1200文字もある感想を受け取り、正直なところ面食らった。だが同時に、その高い筆力にも舌を巻いた。換言すれば、人の心を強く揺さぶるように書かれている。

冒頭の持ち上げてから落とすテクニックは秀逸。そしてそのあとに続く赤字部分の『人にものを教える時は饒舌で巧みなのに、物語となると様変わりしてしまうなんて、と少なからずショックを受けた。』の一文はいわゆる対照法のレトリックを用いており、かなり威力が高い。

というか、ショックを受けたのはこちらの方だぜ!とツッコミを入れたくなるほどの名文である。

文章術を解説するブログを運営している僕自身が、その肝心の技術をまったくもって自作に活かせていない。これは図星であり、それゆえにダメージが大きい。そう、残酷な正論なのである。

以降の「人物描写の悪い部分」の具体的なご指摘は、僕から見てもおおむね納得するところであり、そのとおりだと思う。痛いところを突かれたぜ!といった感じである。

血と愛のこもった感想であるし、僕ならばきっと受け止められると信じて送ってくださったなら、これほどに嬉しくありがたいことはない。気持ちは真摯に受け止めたい。

ただ、ひとことだけ言わせてもらうのであれば、

こんな強い言葉を僕以外に向けてはいけませんよ!

ということである。

「人物描写に改善余地がある」という指摘自体は至極まっとうで、役に立つ。それを伝えようとするならば、強い言葉で感情に訴えかける必要はない。

「文章が読みづらく感じるので、このような感じに手直しされてはいかがですか。ご参考までに」みたいなトーンにした方が、書き手側も冷静に内容を受け止められることと思う。

小説書きは基本的に豆腐メンタルである

もっとも小説を書くような人は、基本的に豆腐メンタルである――と断言してしまえば主語が大きいと叩かれるだろうけれども、繊細で感受性の高い心を持つ人は少なくない。

そのような人にとって、ネガティブな要素を含む感想は、たとえ指摘が正当であったとしても役立てられるものではなく、毒としてしか作用しないケースがある。

かくいう僕自身も決してメンタルが強い方ではなく、かつてブログ記事がホッテントリに掲載されて炎上し、はてなブックマーカーからボコボコに叩かれたときには、それはもう布団にくるまって震えて泣いたものだ。

ツイッターの創作クラスタや、小説投稿コミュニティの一部では、今でも「相手が作家志望であれば、どんな辛辣な感想を投げつけても構わない。むしろ厳しい感想こそが相手のためになる」といった考え方が支持される。

そういうスパルタチックな思想はたしかに多くの受賞者を生み出したかもしれないが、おそらくそれ以上の物書きの筆を折らせてきた。

僕の親友が作家志望で、まさに「自分に厳しく他者にも厳しい」を体現した人なものだから、会うたびに僕の原稿をけちょんけちょんに貶してくる。で、毎回大喧嘩になる。(しかし仲は良い)

なんにせよ、辛辣な感想というのは親友レベルの相手から貰ったものならば受け止められるのだけれども、見ず知らずの他者から貰った場合には受け止めづらいのではなかろうか。

自分を信じること

当記事のタイトル、読者からの「厳しい感想」を小説書きはどのように受け止めるべきか?

この問に対する僕なりの解としては、書き続けることが最優先、である。

あらゆる感想を真摯に受け止める必要はない。自分にとって書く原動力たり得るものだけを選び取り、心に留めておけばそれで十分だと思う。

読者からのコメントは時として先を照らす光となり、時として足を竦ませる闇となる。

心無い感想によって自信をなくし、筆を折ってしまう。それはこの世で最大の悲劇と言える。

どうか自分を信じて、原稿を書き続けてほしい。

(了)

 

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