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ときまき!

謎の創作集団による、狂気と混沌の執筆バトル。

『人生の半分』第14回短編小説の集い投稿作

「あなた、お食事が冷めます」

 妻の洋子がたしなめる。洋子はすでに夕食の半分以上を食べ終えていた。

 文雄は、箸を持った手を胸のあたりで止めたまま、テレビ画面に見入っている。

 車椅子バスケの特集だった。車椅子に乗った青年たちがコートを滑り、くるくると踊るようにしてボールのパスを繋げる。受け取ったひとりがふっと手を掲げると、ボールはもうゴールリングに入っていた。

 洋子の視線に気がついて、文雄は慌てて味噌汁の入ったお椀に手をかける。

「すまん」

 味噌汁を喉へと流しこむ。

 若ければ希望があるのか、いやいや若いのに希望を持っているからすごいのだ。俺もまだ五十七なのにと文雄は思う。自分は百二十歳まで生きると決めている。だからまだ人生の半分にも達していないのだ。

 豆腐のつるつるとした舌触り。噛みしめると、オクラのタネがぷちりと弾けた。赤味噌特有の芳醇な香りが広がる。味噌は香りが難しい。熱しすぎるとすぐ香りが飛んでしまう。味噌の風味が一番引き立つ《時間と温度》が文雄の秘伝レシピには存在したが、いつの間にか妻の手料理に追い越されていたようだ。

 

「少し早い定年退職ですけどね、趣味を持たなきゃダメですよ。すぐにボケるんですから」

 スポーツなんてどうです、昔やってたんでしょと洋子は言う。それからボケたら嫌ですよ、を三遍くらい繰り返した。耳にタコができそうだった。

 文雄はキュウリの漬物を箸でつまんだ。咀嚼するたびカリッカリッという小気味よいリズムが刻まれる。やはり夏といえばキュウリだ。夏といえば子供のときは甲子園行くのが夢だったなあと文雄は思い出す。あの頃は自分がラーメン屋をやるとは夢にも思っていなかった。

 文雄はもういちどテレビの画面の方を向いた。車椅子の若者がインタビューに生き生きとした表情で自分の夢を語っていた。

「そうだな……」

 こんがりとした焼色の、アジの塩焼きに箸をつけた。ほくほくとしたあたたかさを柔らかく舌が包む。アジは夏が旬だ。程よく脂が乗って身も引き締まっている。ラーメン界で魚介ダシが大流行したとき、文雄も研究のために様々な魚を試してみた。アジの干物から取れた出汁は優秀だった。故郷を思い出すようなどこか懐かしい旨味、繊細な風味を殺さない麺を見つけるのに苦労した。

 冷たい麦茶を口に入れると、喉にさわやかな感覚が広がった。甲寿屋秘伝の薫り味噌ラーメン、そして特選アジの魚介ラーメン、この二つは文雄の店で大人気のメニューとなった。息子が友達に『俺の親父は行列のできるラーメン屋なんだぜ』と自慢するのを聞いて、誇りに思った。その味の記憶も、遠い昔に消えたように思えた。

 

「明日、廃業届を出す」

 あらかた店を畳む準備は終わっていたが、廃業届をまだ税務署に出していなかった。これを出したら自分の人生のすべてが終わってしまうような気がした。

「そうですか」と洋子はそれだけ答えた。

 

 翌日、税務署で手続きを終えた文雄は、ふらふらと足が地面につかないような気持ちで帰路についた。実感が湧かない。手続きといっても大したことがない。廃業届と青色申告取りやめ届け、その紙っぺら二枚を税務署の窓口に手渡すと、確認用の日付印を押されてそれで終わり。「お疲れ様でした」「今までご苦労でしたね」のねぎらいの一言もない。(もっともそう声をかけられたとしても困ってしまうが)淡々とした事務仕事の流れそのもので、文雄の用事は一分もかからずに達せられてしまった。

 脱力する。自分が今まで背負ってきたものが、こんなものだったのかと、そして自分がこの先どうやって生きてゆけばいいのかわからなかった。

 帰り道、自分の店に立ち寄った。もう看板は無い。《らーめん甲寿屋》百年千年万年と語り継がれるラーメンを創ろうと名付けたが、結局三十年ぽっちで閉めることになった。

 降りたシャッターに貼られた閉店廃業の張り紙。文雄はしばらくその場で佇んだ。

 

「親方ぁ!!」

 懐かしい声に振り向くと、熊谷だった。以前にも増してずんぐりとした体で走ってきて、汗を白シャツで拭きながらぜえぜえ言っていた。五年前まで、熊谷を弟子にとっていた。その後熊谷は独立して、自分の店を持ったと聞いている。

「熊、店はどうした店は」

「へえ、お陰さまでぼちぼち……」

「そうじゃない。こんな昼間から空けてきたのかと訊いてるんだ」

「だって親方が……」

「馬鹿もん。くだらない理由で顔を見せる暇があったら、すぐに店に戻れ」

 親方、と呟いて、熊谷は目を真っ赤に充血させている。

「すんません、俺、親方のこと何も知らなくて」

 熊谷はもう泣き崩れていて、その場でわんわん叫びだしそうだった。洋子が余計なことを言ったのか。決して誰にも言うなと口止めしておいたのに。

「泣くな。みっともない。誰にでも、引き潮時ってもんがある」

 文雄は自分が泣き出したいくらいだった。

 ふと、ある考えが頭をよぎった。

 まだ金庫にしまってある秘伝のレシピ。あれを熊谷に託せば、自分の味はこれからも受け継がれるのでは――。いや、駄目だ。それはラーメン作りに命を懸ける男への冒涜となる。

「熊は熊の道をゆけ。俺は俺の道をゆく。それだけの話だ」

 文雄は熊谷の大きな肩をがしりと掴み、自分の道を進めと励ました。それはまるで文雄自身に言い聞かせる言葉のように。

 熊谷と別れ、家の玄関をくぐると「おじいちゃーん」と孫娘の風香が飛びついてきた。孫が遊びに来ているとは知らず、文雄は驚いた。

 よしよし大きくなったなと頭をなでていると、洋子が出てきた。

「隆史が来てるのか?」

「ええあの子ったら、突然帰ってくるんですから。連絡くらいくれればいいのに」

 隆史は今年で二十四になる息子だった。東京でコンピューターの仕事に就いているのだとか。息子が学生時代に結婚をしたので、文雄にはもう三歳になる孫娘ができてしまった。

「親父、帰ったんだ」

 隆史も廊下に出てくる。パパー!と声を上げて、風香は隆史の方に行ってしまった。

「会社はどうしたんだ、クビか?」

「縁起でもないこと言わないでくれよ。有給休暇だよ。お盆期間が忙しくて休めないから、代わりに時期をずらして取らされたわけ」

「よくわからんが、大丈夫だろうな。ブラックなんとかとか言うのが増えてるらしいぞ」

 隆史は曖昧に微笑んだ。風香がつまんないー!と言うので、隆史は風香を抱き上げて、居間の方へと姿を消した。

 

 文雄はお茶の間で、畳の上にあぐらをかいている。洋子が出してくれたほうじ茶を啜り、せんべいをかじった。この頃は食べるときに、音に集中してしまう。ガリッガリッという低い音が、頭に響く。

「隆史は大丈夫なのか」

「さあ。でも楽しいみたいですよ。お給料も上がったとかで」

 洋子が答える。彼女は最近ハマったらしいクロスワードパズルを解いていた。赤い老眼鏡で熱心にパズル雑誌を覗き込んでいる。

「うーん……」

 人生は人それぞれか。余計な干渉をするのも良くないと文雄は結論づけた。熊谷の姿がふと脳裏に浮かんだ。

「おじいちゃーん、あげるー!」

 風香がやってきて、文雄にアイスキャンデーの半分を差し出した。(そのアイスは真ん中で縦半分に割って二人で食べられるタイプのものだった)洋子が「おじいちゃんはアイス食べないのよ」と言ったが、文雄はそれを受け取った。風香の手にはもう半分のアイスが握られていて、おそろいね!と喜んでいた。

 そのアイスは淡い緑色をしていた。初めて見るアイスだった。文雄は一口齧って、しゃくしゃくと噛む。夏の日に涼しい、さわやかで透明な喉越し。

「ほぅ、ふうちゃんは抹茶が好きなのか」

 風香は意味が理解できなかったらしく、しばらく首を傾げて「きらーい」と言った。

 文雄が笑って「じゃあ、ふうちゃんのアイスも貰っちゃおうかな」と言うと、やー!と悲鳴を上げて逃げていった。

「ははは、かわいい年頃だな」

「あなた……」

 洋子は何かを言いたそうにしていた。

 

 隆史が呼ぶので、二階の部屋に行ってみると、机の上に一台の小型コンピューターが置かれていた。

「プレゼントだよ。親父、こないだ電話したときパソコンやりたいって言ってたからさ」

 文雄は、紙のように薄い画面を感心して眺める。ためしにボタンをひとつ押すと、色鮮やかな四角い箱が画面にぽっと灯った。とても自分が使いこなせるようになれるとは思えないが、文雄は純粋に、目の前に映る綺麗な風景に心惹かれた。

「休み中に使い方教えるからさ。元気だしてよ。母さんも毎晩心配で眠れないって、だから俺が今日駆けつけてきたんだよ」

「まさか……」

 文雄はここ最近は、むしろ明るく振舞っていたつもりだった。全然隠し切れていなかったということか。

 それから日が暮れるまで、文雄は隆史からパソコンの使い方を教わった。ワープロで文章が自由に打てるようになると、達成感があった。これで自分の半生を、自伝を書いてみたいなという気持ちが膨らんだ。いや恥ずかしいかな。まあいい、新しいことを始めるというのは、悪い気分ではなかった。

「これが、隆史のやってる仕事なんだな」

 文雄が感慨深げに言うと、隆史は少しだけ間を置いて「まあね」と答えた。

 

 夜、夕食を終えて、縁側で涼んでいると、洋子がスイカを持ってきた。風香が「メロンがいい」と駄々をこねる。顔をふくらませる孫を眺めて、文雄は微笑む。欲があるのはいい。欲は生きる力だ。

 それから縁側から足を投げ出して、星を眺めた。自分はこれから何がやりたいのだろう、と思った。

 風香が隣に座ったので、文雄は聞いてみた。

「ふうちゃんは大きくなったら何になりたいのかな」

「ふうはねー、パティシエになるの。ケーキ作ってー、おじいちゃんに食べさせてあげる」

 文雄は胸が詰まった。涙を見せないようなるべく空を見上げて、風香を抱き寄せた。頭をよしよしと撫でた。風香は顔をうずめて喜んでいる。

「風香はいい子ですよ」

 洋子が言った。

「ああ……、長生きしないとな」

 文雄は強く誓った。風香がお嫁に入るまでは生きていようと。まだまだ、人生は半分なのだ。楽しみなことがいくらでもあるではないか。

 味がわからない。自分が味覚障害になったと知ったとき、何もかもに絶望し、すべてを失ったと感じた。けれど、自分にはまだ大切な生きる理由があるではないか。洋子、隆史、風香、それに熊谷もいる。そう簡単に死ねるものか。

「あたりまえです」

 七月の空に、星が輝いていた。

 

(了)

 

 この記事は、

【第14回】短編小説の集いのお知らせと募集要項 - 短編小説の集い「のべらっくす」

 の参加作品です。(約4,200文字、テーマは「食」)11月3日深夜が〆切で、ものすごくぎりぎりな時間の投稿となってしまってすみません。とても悩んだ作品ですが、書くことができて良かったです。

 他の参加者の方の作品は

 こちらから読むことができます。

 

(終わり)


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