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ときまき!

謎の創作集団による、狂気と混沌の執筆バトル。

「目的」や「目標」を行動のエネルギー源とすることの罠

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やほー! さっそく本題。

よく我々は「○○を目標にして頑張る!」といったふうに、目標を行動の原動力(エネルギー源)にすることが多いけれども、それってもしかするとうまくいかんパターンなんかもしれん。

 

例えばよくありがちなのが「小説家になるために(夢が実現することを思い浮かべながら)毎日頑張って5000文字書くぞ!」みたいな。

小説家になろうとして、ゆえに小説を書き始めるのはプロセスとして正しい。せやけど、必ずしも「小説を書く」ことのエネルギー源に「小説家になりたい」という目標が活用できるとは限らへん。
目標ちゅうんはたしかに、自分が進むべき道を選択し、行く先を照らすのにはすごく役立つ。せやけど、その道を歩いて行くための力そのものを目標がくれるわけではないんちゃうかな。


山登りの目標は山頂やけども、その足を運ぶ力は自分の内側から沸き起こってくるものやろ。せやから、《目標》というものに対して、我々はそれを万能のカンフル剤とみなすのではなくて、もっと節制をもって付き合うべきやと思うんや。

 

――って、ニーチェが言ってた。

 

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ええっー!!
そんな近所のおばあちゃんが言ってたみたいなノリでニーチェの名前を出すとさまざまな方面から怒られますよ。
ほんとに哲学者のニーチェがそんなこと言ってたんですか?

ソースはどこなんですか??

 

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360:私たちは二種類の《行動要因》について混同している

フリードリヒ・ニーチェ 『悦ばしき知恵』 第5書 360節より引用(超訳:とき)

私にとっての重要なステップであり、ひとつの前進となった発見がある。
それは、人が何かをおこなうときの「行動要因」と、人が或る地点、方向、目的を決めてそこに向かおうとする「行動要因」とは区別できるのではないかということ。

ひとつめの「行動要因」とは、自分のなかに蓄積された《力の源泉たる原子》のことだ。化学反応を起こす前の原子はその力がいつかどこかでどのようにかして発散、放出、消費されることを待ち望んでいる。打ち上げ花火の火薬のように、きっかけさえあれば空で花開くためのエネルギーを解放する「行動力の源」なのである。

ところがふたつめの「行動要因」は、最初のと比べると取るに足りないほんの些細なもので、そのほとんどは気まぐれな偶然に左右される。喩えるならば花火に点火するためのマッチ棒の炎だ。マッチの火は、花火の打ち上げる方向やタイミングを決定づけるきっかけにはなるが、花火の色彩や大きさはマッチの火でなく本来の火薬量に応じたものとなる。マッチの火はちょっとの摩擦で灯ることもあれば、わずかなそよ風で消えることもある、偶然性が起こすいたずらでしかない。

私はこのマッチの炎のメタファーを「目的」「目標」「使命」あるいは「天職」と我々が呼んでるものに対して当てはめて考えてみようと思う。

上に挙げた例のように、マッチの持つ力(偶然のきっかけによって生じた目的)は、花火の持つ力(放出の時を待ち溜め込んでいる膨大な精神エネルギー)と比較すればまことにちっぽけなもので、気まぐれでいいかげんで、どうでもよいとさえ言えるかもしれない。

しかしながら人々は、古くからの教え、あるいは現代の「目的意識を持て!」と声高に叫ぶビジネス書、あるいは「目標を紙に大きく書いて貼り付けて、具体的にイメージしよう」などと曰う自己啓発書を鵜呑みにする。

そして「目標」「目的」「使命」「天職」を行動のエネルギー源とすることを好んでしまう。
だがよくよく考えてみれば「目的」「目標」はあくまで目指す方向を指し示すためのコンパスに過ぎないのであって、ゴールに辿り着くための燃料にはなり得ないのではないか。

蒸気船の喩えで云えば、人々は本来なら「舵取り」の役割しか持たない「目的」に対して「蒸気」の役割をも持たせられると誤解しているように思える。
極論を言えば、目的・目標などというのは、あとから取ってつけた行動を正当化するための自己満足のようなものでも代替し得る。
それに、そもそも目的や目標を決める際には、自分の意志以上にあまりにも多くの外部要因や偶然が影響する。人生の岐路において自分の意志で決められることは自分で思うより少なく、私たちは予め敷かれたレール、あるいは天の気まぐれの結果で歩かされているだけかもしれず、自由意志の介在できない進路の恐怖あるいは不満を紛らわすために「目的意識」という概念を生み出した可能性さえある。

いずれにせよ、私たちはいまだに「目的」に頼りすぎているのであり、我々には目的と云う(過度に神格化された亡霊のような)概念に批判することが求められているのだ。

[引用、意訳ここまで]

 

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超訳し過ぎですよ!!
十中八九、本来ニーチェが言おうとしたこととは別の解釈が入ってますよ。

とくに自己啓発書とビジネス書のくだりは絶対言ってないです。
とにかく原典出してください、原典。

 

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ふぇぇ。><
とりあえず原文へのリンクを貼っておくでー。

ちなみに上のサイトはドイツ語版の青空文庫のようなもので、ニーチェをはじめ様々な哲学書、文献(パブリックドメイン化してるものが多い)を読むことができるで。

ドイツ語の勉強するなら一押しのサイト。


あと、「ドイツ語→日本語」ではGoogle翻訳の力では太刀打ちできへんけども、「ドイツ語→英語」に翻訳すれば意外と読めるで。

 

うちのなんちゃって訳やなくて、正統派の和訳を読むのであれば、出版されてる次の二冊がおすすめ。(というても知る限りこの二冊しかない)

河出文庫の方は、2012年出版と比較的新しく、読みやすい。

光文社古典新訳文庫でもいつか出してくれへんかなと期待しとる。

ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)

 

 

喜ばしき知恵 (河出文庫)

喜ばしき知恵 (河出文庫)

 

 

追記:自己ツッコミ

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ひとつ疑問に思ったのですが、ニーチェの著作を読む場合にはその背後に「キリスト教」「道徳観念」「形而上学」等への批判を汲み取るべきではないでしょうか。

例えば今回「目的」と訳した"Zwecke"も、キリスト教的目的論や、あるいはカントの「目的の国(Reich der Zwecke)」道徳思想を指すのであって、我々が一般に云う「目標」とはニュアンスが異なるのではないでしょうか。

そして、「天職」と訳した"Lebensberufe"についても、これは神に導かれ人間の普遍的な使命(職)を全うする、英語で言うところの"vocation"あるいは"divine calling"(神命、召命)という意味での天職であって、ようするに「小説家を目指す」的な天職とは分けて考えるべきなのではないでしょうか。

 

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ふぇぇ、マジレス怖いよぉ……。

ただし、この質問には一言で答えられるで。

神は死んだ。

かつて人々の背後世界に在り、人々が生きるための指針としてあったのが「神」やった。けども今日では神は死に、神に取って代わって「目的、目標」が座についた。

いまの資本主義なんてのはこれを結晶させたようなもので、つまりは「未来の目標に辿り着くこと、目的を叶えること」を最上位の行動原因として、世界が動いとる。

ニーチェであればこのような現代的目的世界についても批判したやろうから、必ずしも今回の解釈が間違っているとはいえなくもなくなくない。やで!!

 

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(自信ないのね……)

 

(おわり)


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