ときまき!

謎の創作集団による、狂気と混沌の執筆バトル。

小説を書くのは苦しい

「小説を書くのはすっごく楽しいよ」というのは、強者もしくは狂者の論理であり、真に受けると痛い目を見る。小説を書くのは、苦しい。基本的に苦しい。どのくらいの苦痛を伴うのかは、私の執筆中の表情を見てもらえればわかる。私は小説を書くときは、ムンクの叫びのような顔をしている。

 私はよく、長編小説を書く行為をマラソンに例える。マラソンはつらい。脇っぱらが痛くなってくるし、呼吸もきつくなってくるし、そのうち自分が何のために走っているのかわからなくなる。すべてを投げ出して、草原に寝転がりたくなる。どうしてこんなに苦しい思いをして走らなければならないのか。けれど、走るのだ。ゴールにたどり着くために。

 苦しい、苦しい、と喘いでいると、耳元でこんな声が聞こえてくる。

「苦しいなら無理して書く必要はないんですよ。僕は小説を書くのが楽しいです。小説を書きたくて書きたくて、今にも筆が踊り出すような人は、世の中にたくさんいますよ。わざわざあなたが苦しむ理由がどこにあるんですか? さあ、筆を折ってしまいなさい。そしたら楽になります」

 耳を傾けてはいけない。悪魔の戯言だ。

 けれども、自分が何のために小説を書くのかは、知っておく必要がある。アンパンマンの歌詞のように、人は理由や目的を見いだせなくなると気力を失ってしまう。最近インターネット界隈で大流行している『承認欲求』は小説を書く動機となり得ようか。

 他者から認められたい、俺のことを見下すあいつをぎゃふんと言わせてやりたい、受賞して有名になってちやほやとされたい。作者と作品は切り離されるから、どのような動機で小説を書くのも自由だ。走れて、完走さえできればそれでいい。けれど実体験から言わせてもらうと『承認欲求』は思いの外、書く動機としては役に立たない。なぜならば、承認欲求は小説を書くことでは滅多に満たされないからだ。

 私が長編小説を書き上げて賞に投稿したとして、次に待っているのは99%の確率で『一次落選』の無慈悲な現実。同じ小説家志望の友人に原稿を見せれば、それはもう駄目出しの嵐がやってくる。また別の仲の良い友人に読ませてみれば「面白かったよ」と返してはくれるものの、声はどこか乾いていて笑顔が引きつっている。はなから小説に承認欲求の充足を期待するのはお門違いなのだ。承認欲求ならば、ツイッターでイイネ!を貰ったりブログでスターやコメントを貰ったりしたほうが、100倍は満たされる。

 では小説を書くメリットなんてないではないか。それとも苦痛をマゾヒスティックな快感に変えれば良いのか? なんて声が今にも聞こえてきそうで、私も頭を抱えて震えている。たしかに、小説を書くことのすべてが「苦痛」だとするのは言い過ぎだった。苦しみの狭間に、執筆時特有の恍惚とした甘い美酒が、自己酩酊と自己陶酔の心地よいひとときが、やってくるのも確かだからだ。

 マラソンであれば「ランナーズ・ハイ」に該当する「ライティング・ハイ」の瞬間が、小説を書くときにもやってくる。書く人ならば誰もが体験するだろう。「執筆の神様が降りてきた」「憑依」「トランス状態」「ゾーンに入る」など表現はさまざまあるが、執筆中に脳内麻薬がドバドバと分泌される至高の時間が、たしかに訪れる。が、そうはいっても小説を書くことは基本的には苦しい。まぐれ当たりのような快楽は、あまりアテにはできない。掌編ならばその場の酔いで書き切れても、長編となると話は別だ。地道でコツコツとした根気が要る。

 私に小説を書かせる理由があるとすれば、それは「恐怖」だ。私は初恋の相手が、夢のなかの人物だった。(もちろんレム睡眠時に視るあの夢である)夢だから、目が覚めると記憶はだんだんとおぼろげになっていき、やがては完全に忘れてしまう。私は自分の恋した相手を忘れるのが怖かった。だから文章という形で、恋人の姿を遺しておこうと考えた。画才があったのなら絵にしたし、ピアノが弾けたのなら曲にしただろう。とにかく、忘れたくない恐怖が私に文章を書かせた。

 考えてみてほしい。現実世界で私たちが生きることと、虚構世界で小説の登場人物が生きること、この両者に果たして差異はあるのだろうか。私は毎日仕事のルーチンワークで冷凍イカのような瞳でパソコンのキーを叩いているが、それと比べれば恋愛小説のなかのヒロインのほうが遥かに実存的に「生きている」と言えるのではないか。

 ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読んだとき、私は現実世界に住まう人間よりも、虚構世界に住まうキャラの方がずっと生命に満ちた存在であるような気がして、身震いがした。

 パソコンのフォルダに入れた未完原稿のファイルから「助けて……あたしをここから出して……」と声が聞こえてくる。恐る恐るdocxのファイルをダブルクリックしてみると、途中で投げ出してしまった物語のヒロインが恨めしそうに声をあげるのだった。「ねぇ、あたしの人生はここで終わりなの? このまま誰にも知られずにあたしは死ぬの?」悲痛な叫びはやがて作者の私自身をも呪い殺してしまいそうで、私は頭を抱えながらも原稿の続きを書き始めることを余儀なくされる。ちなみにその原稿はホラー小説だった。

 もしも私が小説を完成させなければ、このヒロインは一生私の頭のなかに住み着き、悪夢を見せようとするかもしれない。だから早く書き上げたいと思う。筆者である私と、キャラクターとが完全に切り離されたとき、そして私以外の読者と出会えたとき、キャラクターはようやく本当の命を手にする。物語は作者の手を離れ、読者の元へと届く。そこがゴールであり、走り切った私は、安心してお布団に潜り込めるようになる。

 こんな意味不明な長文を書き連ねてしまうほどには、小説を書くのは苦しいし恐ろしい。けれど、それがどうした、それで良いのではないかと思う。小説家は「まんじゅうこわい」と泣き叫びながらも、まんじゅうをパクパクと喰らうてしまう人たちなのだから。

 最後に、『走れメロス』の一節を引用して締めくくりたい。

間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。

引用:太宰治『走れメロス』

(了)

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