ときまき!

謎の創作集団による、狂気と混沌の執筆バトル。

ワケギを切るのもタマネギをレンジにかけるのも涙がボロボロ零れる

ワケギでも涙は出るという話

家族3人分の料理を任せられる私としては、なるべく楽をしたいのが道理で、この頃は「野菜の冷凍保存」に凝っている。タマネギやニンジンを予めスライスしてからラップに包んで、小分けに冷凍しておく。するとカレーやシチューを作るときの「時短」ができ、味もさほど落ちない。

先日、スーパーを歩いていて、ワケギの大袋が100円で安売りされていた。私は今までワケギを青ネギの妹か何かだと思っていたのだが、ちょっと違った。ウィキペディア先生によると、ワケギは「ネギとタマネギ」の雑種なのらしい。

さておき、買ったワケギを買い物バッグに入れて揺らしているうちに、ルンルン気分。初音ミクのIevan Polkkaを脳内再生しながら、閃いた。今日のうちに全部まとめて、ワケギをみじん切りにしてしまおう。それをジップロックで冷凍保存しておけば、当分はネギを切る煩わしさから解放されるぞ。

御存知の通り、ネギは日持ちが悪い。野菜室で1週間も寝かしておくとヘニャヘニャ~と元気を無くし、先端から枯れたようになってしまう。かといって(スーパーで売ってる)事前にみじん切りしてある「葱パック」は消費期限が1~3日と短い。どうにも扱いづらいし、値段も高い。

帰ってさっそく、まな板の上にワケギの束をどっさりと置く。包丁でみじん切りにしていく。ところでどうしてネギと言う奴は、まな板の上からコロコロと転げ落ちていくのだろう。

そんなことを考えながら、タン、トントン、と切っているうちに、涙がボロボロと零れ出す。

私は眼鏡をしている。普段はネギを切ろうがタマネギを切ろうが滅多なことでは涙が出ない。なのに、ワケギの山と向かい合っているうちに、涙が止めどなく溢れ出てきた。恋をしているのかな、と思った。そうでなければ、まな板から落っこちるワケギの子の悲しみが乗り移ったのだろう。

あとで、ネットで検索をした。ワケギがタマネギの仲間だと知ったのはこの時だった。普段は切る量が少なかったので気が付かなかったが、ワケギといえど大量に切れば揮発性の硫化アリルが目に染みるのだそう。

ワケギをいっぺんに切る際にはご注意あれ。

タマネギレンジは恐ろしいという話

同じくネットで「タマネギはレンジで温めてから切ると涙が出ないよ!」という極秘情報を入手した。私はへぇーっと思った。じつは、以前にアニメでみた「ふらいんぐうぃっち」の料理好きな男の子も同じことを言っていた。

私の認識では、タマネギは「切ったあと」にレンジにかけるものだ。「切る前」にレンジにかける発想はなかった。タマネギを切ったあとに耐熱容器に入れてラップをふわりとかけ、レンジで3分ほど温めると、柔らかくなって料理の時短ができる。これはよくやる。

さておき、ネットの情報を鵜呑みにした私は、やってみようと考えた。

タマネギを半分に切って、レンジの中へ。耐熱容器に乗せる。ターンテーブルがクルクルと回るのを見届けて、1分間(温めすぎた)。昔のレンジは「チンッ」と小気味良い音で知らせてくれたのだが、最新のに買い換えてからは「ピピー、ピピー」と鋭い音で終了の合図をするので、私はびっくりしてしまう。レンジに風情を求めるのは酷か。

タマネギを取り出してみると、モクモクと蒸気が上がっている。(ほう、これはすごいな……焼き芋みたいだ)と思った私は、真正面からタマネギを覗き込んだ。

立ち昇る蒸気。

見開く瞳。

鼻は大きく空気を吸った。

刹那――、私は鼻腔の奥に、いたたまれない何かが暴れだすのを感じた。

ゲホゲホと咳き込むも、涙が止まらない。

くっ……これは孔明の罠!!

レンジ恐るべし。

おのれネットのいい加減な情報め!と拳を振り上げるも、今にして思えば(目論見通り)気化させたはずの《硫化アリル》。この催涙成分を多分に含んだ蒸気をわざわざ吸い込みにいったのは、愚かな私自身であった。

タマネギで涙を出さないクックハックには、レンジで温めるのとは逆に「切る1時間くらい前に冷蔵庫で冷やしておく」というものもある。

私としてはこちらが気に入っている。

あと、包丁を研いで切れ味を良くした。タタタタタタターンとリズミカルに切る手法をマスターしてからは、タマネギに泣かされることは無くなった。料理を楽にするならスピードとストックを究めるべしだと感じた夏の日暮れであった。

(終わり)

小説原稿を1日2万文字書くには、どうすれば良いのか

「小説家の西尾維新さんは1日に2万文字を書く」という話を聞いた。私も集中して原稿執筆に時間が取れる機会を得たので「1日2万文字」を目標に挑戦してみた。

―― へえー、文字数で! 1日でどれくらい書かれるのですか?
西尾 今は、基本1日2万字です。

引用:西尾維新さん - あのひとの「ほぼ日手帳」 - ほぼ日手帳2014

どのくらいの時間があれば、2万文字書けるの?

私の場合は、2万文字を書くのに平均して10時間を要した。つまり筆速は2000字/時となる。お恥ずかしい話、1日2万文字に2週間ほど挑戦をして、これを達成できたのはわずか2日間だけだった。日速1万文字までならば、根気と時間さえあれば乗り切れる。

けれど日速2万文字となると、厳しい。実際にやってみると分かるが、到底不可能ではないかと思われる。凄まじい集中力の持続がなければ、2万字には到達しない。私が2万字を達成した2日間は、実のところ「徹夜」をすることで何とか書き切れたのだった。

結論を述べれば、西尾維新さんは凄すぎる。脱帽する。とても「1日2万文字」は、常人に容易く達成できる筆量ではない。

「筆速2000字/時」って遅くない? 森博嗣さんは1時間で6000文字書くよ

小説家の森博嗣さんは「1時間で原稿を6000文字書く」と、インタビューで答えている。(参考:森博嗣さんインタビュー | BOOK SHORTS

「6000字/時」は、はっきり言って、神様レベルだ。たとえゾウが逆立ちをしても、私にはできない。無理です。筆が一番乗っている奇跡的な瞬間でさえ、時速4000字が限界だった。

「ふふふ、そんなの嘘だ、俺が本気を出せば余裕だぜ!」と思われた場合には、実際にストップウォッチを使って挑戦してみよう。多分、絶望すると思う。私も時速6000字にチャレンジして、その結果を目の前にしたときは、絶望に打ちひしがれた。

圧倒的な神の力を見せつけられて恐れおののき、地に頭をつけてひれ伏す。次元の壁を知る。まさに――、そのような気持ちだった。

「筆速2000字/時」は遅いペースではない

これも実際に書いてみることで実感できる。1時間で2000文字は決して遅くない。原稿用紙換算で5枚、一般的な文庫本換算で4ページほどとなる。この文量を1時間で書き進めるのは、意外と難しい。

具体例を挙げてみる。「2000字/時」で書くためには、30分で1000文字書かなくてはならない。

「1000文字」は、縦書き原稿で「40字×32~35行」くらいの文量となる。(計算が合わないじゃないかと思われるかもしれない。しかし小説を書くときはページ一杯に文字を埋めていくわけではないので、このくらいとなる)

つまり、30分で1000文字書くためには、1分で1行以上は書き進めておく必要がある。やってみると、案外難しい。

「次のヒロインの台詞はどうしよう」「このシーンの描写はどうやろう」「表現はこれで合っているのだろうか」などと悩んでいると、1行を書き終える前に2分、3分、10分と、どんどん時間が過ぎ去っていく。

ゆえに「筆速2000字/時」は決して遅いペースではない。むしろ、それなりに原稿が止まらずにスラスラと筆が進んでいる状態だ。だから筆速2000字あるのなら、「もっと早く書かなきゃ」と焦らなくても大丈夫。

集中力が途切れるのはどうすればいい?

私は次のような方法で原稿を書いている。

  1. 30分を目安に1000字を書く
  2. 書けたら10分間の休憩。ベッドで横になったりストレッチをしたりしながら、次の1000字で書くシーンを脳内再生する。
  3. また30分を目安に1000字を書く
  4. 終われば再び10分間の休憩をしながら、次に書くシーンを脳内シミュレートしておく。

上記を5セット繰り返すと「執筆時間5時間、休憩時間90分」で、原稿が1万文字進む。時速2000文字で進めるとして、もちろん10時間やれば2万文字は達成できる。が、本当に苦しい。途中で意識が途切れてぶっ倒れそうになる。

小説執筆に時間が取れるときであっても「1日あたり1万文字」くらいが、無理のない範囲かなと感じる。

こまめに休憩を挟む方法は、一見すると非効率的に見えるかもしれない。しかし、1日に5時間以上原稿を書き続ける場合においては、このように休憩を入れないと集中力がまず持たない。

実際に休憩なしのノンストップで挑戦してみると『走れメロス』の気分を味わうことができる。

途中で筆が止まってしまうのはどうすればいい?

原稿は「描写」と「構成」の2つの要素から成り立つ。

つまり、筆が止まる原因は

  1. シーンをどのように文章で表現したら良いのかで悩む=「描写」の問題
  2. 次の段落にどういったシーンを持っていけば良いのかで悩む=「構成」の問題

のどちらかであると思われる。

描写で立ち止まった場合には、大抵は辞書を引けば解決できる。創作理論の本などを読むとたまに「原稿執筆中は辞書を引くのを辞めましょう。難しい表現に固執せず、自分の言葉で書き進めることが大切です」といった論説を見かける。

後半部分には同意するとして、それでも辞書は引いたほうが良い。むしろ原稿執筆中に辞書を引かなくて、一体どこで辞書を引く機会が訪れるというのか。どんどん辞書に頼るべし。

例えば、次のようなシーンで筆が止まったとき、辞書なしで描写の問題を突破するのは難しい。

「えーっと、歩道橋の上で男が佇んでいるシーンを描きたい。男は歩道橋の上で、寄りかかって、肘をついて、街に沈みゆく夕陽を眺めている。このとき男は『何処に両肘を乗せた』と表現するのが正しいのだろう。

『歩道橋のうえに両肘を乗せた』は表現としておかしい。

『歩道橋の柵の上に…』『転落防止用のフェンスの上に…』『手すりに両肘を乗っけて…』うーん、どれもしっくり来ない。何かぴったりと当てはまる表現はないものか」

と、上のように悩んだときに、日本語大シソーラス類語検索大辞典(大修館書店)を一冊持っていれば、即座に悩みが解決する。

この辞書で「手すり」と引いてみると、類語として「欄干(らんかん)」というまさにぴったりな言葉が出てくる。

『歩道橋から沈みゆく夕陽をぼんやりと見ている。男は欄干に両肘を乗せて、重々しく溜め息をついた。』

以上、解決。「欄干」の言葉なしに上記の描写を突破するのはなかなか難しい。辞書にはどんどん頼ってしまえば良いと感ずる。

ちなみに私はロゴヴィスタから発売されている日本語大シソーラス類語検索大辞典を使っている。検索語句を一発で引くことができ、めちゃくちゃ便利だ。「ctrlキー+R」で全文検索ができる。(見出し語にない単語でも見つけられる)

『日本語大シソーラス類語検索大辞典』(ロゴヴィスタ)

(私はAmazonのダウンロード版 for Winを購入した。Windows10でも問題なく使える) 

執筆中の使用頻度が高い辞書リスト

私は具体的に、執筆中は以下の辞書を使っている。

☆言葉の意味が間違っていないかを確認する

  1. 岩波国語辞典 第七版
  2. 広辞苑 第七版

上の2つはいずれも電子版で、「一太郎プレミアム」のおまけにくっついてきた。※付属の電子辞書は毎年変わり、2018年版には広辞苑が特典についてきた。

一太郎プレミアム付属の「広辞苑 第七版 for ATOK」は、気になる単語を選択してCtrlキーのショートカットで即座に辞書を呼び出せ、大変便利だ。

ちなみに今年度版の「一太郎プレミアム 2019」には

  • 日本語シソーラス 第2版 類語検索辞典 for ATOK
  • 明鏡国語辞典 第二版 for ATOK

の2種類の電子辞書がおまけでついており、まさに小説書きをターゲットとした特典となっている。

※平常時はAmazonよりも、上記のジャストシステム公式のECサイトからの方が一太郎は安く買える。

☆類義語、代替表現を調べる

  • 日本語大シソーラス類語検索大辞典(大修館書店)

使用頻度がめちゃくちゃ高い。これひとつあるとものすごく捗る。

たとえば『嬉しい』の項目を調べると『胸をふくらませる』『心躍る』『顔を綻ばせる』『声を弾ませる』『嬉しい悲鳴をあげる』などなど、小説表現にも使えそうな類語がたくさん出てくる。

上で述べたとおり、ロゴヴィスタの電子版がパソコンで即引けて便利。CASIO電子辞書(EX-word)の上位クラス版でも、この類語辞典が搭載されていたはず。

収録語数は申し分ないが、用例や使い分けの解説がないのは短所とも言える。国語辞典と合わせて活用したい。

☆言葉のあとに接続する語を調べる

この辞書も比較的、執筆中の使用頻度が高い。コロケーション辞典なのだけれども、小説を書くのに特化している感じがあり、使いやすい。

例えばてにをは辞典で『胸』の項目を調べると、『胸が上下する』『胸が波立つ』『胸が煮えくり返る』『胸が早鐘をつく』『安堵が胸に還る』などなど、『胸』の前後に繋がる言葉が大量に提示(100は軽く超えている)される。

てにをは辞典に出てくる表現だけで小説一冊書けるんじゃないかと思えてしまうほどで、大層役立つ。

(参考:「てにをは辞典」小説書きの辞書レビュー

他にも小説執筆のために、あと10冊ほどの辞書を用いている。出し惜しみも勿体無いので、リストアップと簡単な評価だけしておきたい。

タイトルリンク先はAmazonページ。個別にレビューをおこなっているものについては記事リンクをつけた。

  1. てにをは連想表現辞典(三省堂)
    ◯ 上級者向け。てにをは辞典の姉妹辞書で、実際の小説作品で用いられている「表現」を調べる。ただ索引に手間がかかるため、使い勝手は五十音で一発引きができる「てにをは辞典」の方が優秀。
    → (てにをは連想表現辞典 レビュー記事
  2. ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 プラス世界各国要覧 2018(ロゴヴィスタ)
    ◯ あると何かと便利だが、最近ではWikipediaで調べることが多い。買うならPC版か電子辞書が使いやすい。
  3. 感情類語辞典フィルムアート社)
    △ 見出し語が少なすぎて辞書としては使えない。心理描写の書き方の参考にはなる。
    → (感情類語辞典 レビュー記事
  4. 性格類語辞典 ポジティブ編ネガティブ編(フィルムアート社)
    △ こちらも辞書としては今ひとつだが、キャラ設定時のネタ出しには活用できる。
  5. 場面設定類語辞典(フィルムアート社)
    △ 情景描写・風景描写を手助けする非常に面白い発想の辞書であるものの、日本を舞台とする小説には使いづらい点が多く見られる。
  6. 日本語コロケーション辞典(学研)
    × 用語解説があるのはプラスだが、てにをは辞典の収録語数には大きく劣る。小説執筆にはあまり役に立たない。
  7. 日本語の文体・レトリック辞典(東京堂出版)
    ◯ 上級者向け。修辞技法の体系を網羅。ただ使いこなすには、レトリックについての事前知識が必要。
    → (日本語の文体・レトリック辞典 レビュー記事
  8. 官能小説用語表現辞典 (ちくま文庫)
    △ この手の小説を書くなら役立つ。ただし出てくる表現が独創的なため、直接的な借用は難しい。(剽窃表現となってしまう)
  9. 官能小説「絶頂」表現用語用例辞典 (河出i文庫)
    ◯ この手の小説を書くのであれば極めて役立つ。
    官能小説用語表現辞典よりもこちらの方が実用的。私が持っているのは文庫版だが、このたびまさかのKindle版が登場。電子書籍なら本文検索ができて便利。
  10. レトリック事典(大修館書店
    ☆☆☆ 超上級者向け。レトリックをマスターするのであれば外せない辞書。文章表現をとことん究めたい方に。但し極めて専門的かつマニアックな領域。
    → (レトリック事典 レビュー記事

辞書を買うのは良い投資だと感じている。

ボキャブラリーを増やせば良い小説が書けるのか?と問われれば、私は首を横にふる。けれども、執筆の補助ツールとして辞書は役立つか?と問われれば、それはもう全力で首肯したい。

とにかく辞書さえ揃えれば、描写の問題で筆が止まる事態はかなり軽減される。

次の段落に何を書けば良いか迷ったときの対処法

「構成」で立ち止まってしまうのは、事前準備の段階で「設定」が煮詰まっていないケースが多い。プロット、世界観設定、キャラ設定のどれかに不備があると、書き進められなくなる。

シーンが鮮明に滞りなく脳内再生できるようになるくらいまで、設定を深めておきたい。原稿を書く段階に至って「このキャラの口調はどうしようかな」みたいなことを考えているようでは、準備不足と言わざるをえない。

私も決して偉そうなことを言える立場ではなく、プロット段階での準備不足をいっつも後悔している。本当に反省しだせばキリがない。

手前味噌で申し訳ないが、プロットのアイデア出しに役立つであろうWebサイト「タロットプロット」なるものを作った。もし宜しければこちらもご活用されたし。

どうしても次の段落が思いつかない場合には、【保留】とでも原稿に打ち込んでおいて、次の書けるシーンに飛ばしてしまっても大丈夫。

1日2万文字を書く方法まとめ

  • 時速2000字なら、10時間はかかる(かなり苦しい)
  • 時速2000字は、決して遅い執筆ペースではない
  • 30分で1000字書いて、10分休憩(&次に書くシーンを脳内再生)を繰り返すと、長時間の執筆でも集中力が持つ
  • 「描写」で詰まったときは辞書にどんどん頼ろう
  • 1日2万文字を書くためには、前提条件として「プロット」「キャラ設定」「世界観設定」などの事前準備をしっかりとしておく必要がある(その場の即興で2万字書こうとするのは無謀。ただし不可能とまでは言わない)
  • 無理のない範囲でなら、1日1万文字程度に留めておくのが無難

(終わり)

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時巻クラブの作品置場

長編を書き切るための小説講座

長編小説を書くのは苦しく、挫折しやすいものです。ときまき!では、どうしたら(なるべく苦しまずに)長編原稿を最後まで書き切れるのかを模索し、創作理論や執筆ノウハウに関する記事を連載してきました。

「長編小説を完結させる!」の目標達成に役立つであろう記事をここでは厳選し、目次としてまとめています。

長編執筆のための創作ノウハウ

より良く描写するためのレトリック入門(修辞技法/文体理論)

小説を書くことに関するコラム(創作理論)

創作役立ち系書籍のレビュー記事

プロット作成占いツール「タロットプロット」

「狂気の先にあるもの」ゲオルク・ハイムは何を書いたのか?【記事未完成】

ゲオルク・ハイム『モナ・リーザ泥棒』(河出書房新社1974年)を読んだ。いわゆる絶版本で入手が難しく、中古で2万円近くする。河出書房がまた新訳の世界文学全集版を出してくれたら嬉しいのだが、Amazon Unlimitedが話題となるなか、このように金を積んでも手に入らない本というのは存在する。

現状、これを読むためには、大学図書館や公立図書館をまわって探すのが最も早い。私もそうやってようやく見つけた。通読するなら一日でも可能だが、自分のなかで消化するには最低でも一年は要する作品。到底、三週間の貸出期限では理解し得ない。なのでこの記事に追記していく形で、感じたことを列挙していく。

(まだ記事としては未完成で構想メモ状態です。4年くらいかけてこの記事を仕上げていきます)

2016年8月9日 記

『モナ・リーザ泥棒』は短編集で、どす黒く救いようのない絶望的で頽廃したとてつもなく狂気に満ちた冥き物語が寄り集まっている。ボードレールの『惡の華』が好きな人は、間違いなく本作に飲み込まれるだろう。事実としてハイムはボードレールの影響を受けている。

(メモ)デュオニソス的狂気を感じる。

一部、いや多数の熱狂的な読書家から『モナ・リーザ泥棒』は高く評価され、絶賛される。その書評や考察には必ずと言って良いほど「狂気」の文字が入るのだが、これを私は「罠」だと考えている。

『モナ・リーザ泥棒』が描いたのは狂気そのものではなく「狂気の先にあるもの」ではないのか。同様にして、作中で描かれるのは「狂人」ではなくて「狂人が変身したあるもの(・・・・)」ではないのか。私は疑っている。

本作が「狂気」や「絶望」を表現したものだと素直に(・・・)解釈するのは、やや踏み込みが浅いかもしれない。いや、踏み込みが浅いと思わせるほどの恐怖を作品が投げかけてくるのだ。「お前はまだその程度にしか到達していないのか?」と。

じゃあその「狂気の先にあるもの」とは何か。私はいくつか直感を得ている。しかし、今この場で書くのは正直憚られる。というより出し惜しみをしたい。いや、まだ消化しきれていないことなので書けない。ただ、少なくともはっきりと感じることは、あの短編集のひとつひとつは「絶望」ではなくむしろ「希望」なのだと。「破壊」ではなくむしろ「  」なのだと――。

同じ狂気という話であれば、アンドレ・ブルトンの『狂気の愛』の方がずっと狂気じみた文体であった。『モナ・リーザ泥棒』は文章に関していえばかなり読みやすく、比喩も計算された形で使われている。どのようなレトリックが使用されているのか、分析しようとすれば可能なくらいだ。狂気的どころか、理性的な文体で「狂気」が書かれている。理性的な狂人である。

2016年8月9日 記 その2

ゲオルク・ハイムは24歳のときに溺死した。奇しくも本書を読んだ僕自身も24歳で、おそらく最もショックを受けたのはその事実であったように思う。

メモ

gutenberg.spiegel.de

じつはドイツ語の原文であれば上のサイトで読めるのだ。うああああああああああ、大学時代にしっかりドイツ語勉強しておけば!!!!!!

今後書くもの(この記事に追記・編集予定)

1.狂気の先にあるものは「  」である。

2.狂人とは「   」のなり損ねである。あるいは「  」を現実に齎すものである。

→ その理論が作中で用いられていることの証明。

3.「体験話法」の働きについて/フランツ・カフカ

4.デカダン派との繋がり/ボードレール

5.ニーチェの語る「   」の道と、デュオニソス的な何か

6.ゲオルク・ハイムの用いた修辞技法「交差呼応」「異例結合」「共感覚法」の3つの実践的考察。

7.私の狂気よ世界を喰らえ

(未完/2020年完成予定)

「てにをは辞典」小説書きの辞書レビュー

本日ご紹介するのは「てにをは辞典

紙の辞書のなかでは最も使用頻度が高く、愛用している。小説の執筆中はいつも手元に「てにをは辞典」を置いている。

ネーミングから、助詞(てにをは)の辞典なのかな、と思われるかもしれない。だが実際には「コロケーション辞典」と呼んだ方がふさわしく、本書は《言葉と言葉の結びつき》を探すための辞典である。詳しくは後ほど。

てにをは辞典

(ゾウの表紙がかわいい。姉妹辞書の『てにをは連想表現辞典』との比較記事はこちら→「てにをは連想表現辞典」てにをは辞典との比較とレビュー の記事に書いた)

1.何のために辞書を引くのか

小説を書くにあたって、辞書を引く理由はいろいろと思いつく。ボキャブラリーを増やすため、描写の力を上げるため、単語の意味を調べるため……etc

しかし、あらゆる辞書において、その本来的な役割というのはたった一言に言い表せる。すなわち辞書の役割とは《代替表現を探すこと》だ。コロケーション辞典に限らず、国語辞典、類語辞典、比喩辞典、レトリック辞典、オノマトペ辞典、これらは、自分の頭に思い描いた文章の《代替表現を探すために》真価を発揮する。

代替表現を探す、という考え方はとても重要なので、ぜひ覚えておいて欲しい。小説の執筆中に辞書を引くのは、より相応しい言葉や表現を見つけるための儀式である。

2.「てにをは辞典」を小説の執筆にどのように使うのか

一例:行動を描写する

ここでは「歩く」描写について考えてみる。同じ「歩く」でも、早歩きだったり、のろのろ歩きだったり、足を引きずっていたり、歩幅が大きかったり、表現次第でその人物の性格や心理状態がまるっきり変わってくる。

  • 「彼は歩いている」

これだけでは何も伝わらない。なので、より詳細な心理を伝えるための表現を五個考えてみよう。行動描写を書く際に、てにをは辞典は大層役立つ。

以下、てにをは辞典の活用によって書くことのできる例文。

 彼は全身にうっすらと冷や汗をにじませて、忍び足に廊下を進んだ。

(てにをは辞典/以下略 p.1398 全身に・うっすらと【冷や汗】が→にじむ/p.62 忍び足に【歩き回る】)

 大げさにため息をつく。投げやりな歩き方で、彼は壇上にあがった。

(p.991 おおげさに【ため息をつく】/p.62 投げやりな【歩き方】/p.1000 【壇上】に→あがる)

 彼はひきつった笑みを口元に浮かべ、食卓を立つ。そして急ぎ足に玄関へと向かった。

(p.199 ひきつった【笑み】口元に【笑みを浮かべる】/p.62 急ぎ足に【歩く】/p.793【食卓】を→立つ)

 彼は無愛想な返事を返すと、さっさと大股に歩み去った。

(p.218 さっさと【大股】に→歩み去る/p.1486 無愛想な【返事】を→返す)

 顔に苛立ちの色をちらつかせ、彼は脇目も振らずに道を歩いた。

(p.298 【顔】に→いらだちの色をちらつかせる/p.63 脇目も振らずに【歩く】)

おおよそ、このような感じとなる。てにをは辞典には「語と語の結びつき」が60万例も収録されている。てにをは辞典に載っている用例だけで小説を書き上げることさえ、おそらく可能だろう。

3.てにをは辞典は本当に必要なのか?

上に挙げた例文を読んで、もしかしたらこのように感じられたかもしれない。「これって辞書を引かなければ思いつかないような表現? わざわざ辞典に頼らなくても、自力で描写できるんじゃないの?」

身も蓋もないことを言うと、私もその通りだと思う。てにをは辞典には、凝った修辞技法の類はほとんど出てこない。あくまで、一般的に用いられる(悪く言えば月並みな)慣用表現がメインである。

けれども、それが良い。だからこそ良い。仮に『納豆の糸のような雨』(蟹工船/小林多喜二)、『トテモたまらないお美味さをグルグルと頬張って』(ドグラ・マグラ/夢野久作)みたいな表現が、辞書に載っていたとして、小説を書くのに使えるかと問われればまったく使えない。

お洒落で独創的なレトリックは、その作者だけが扱える専売特許のようなものである。勝手に使えば、剽窃の問題が出てくる。「てにをは辞典」は誰にでも扱える一般表現だけを選別しているので、(だからこそ)辞書としての活用ができる。

結論として「てにをは辞典は本当に必要なの?」と聞かれたら、私は「あると便利だよ」くらいのことしか言えない。おおよそ10万文字の小説を書くときに、私の場合は通算すると「てにをは辞典」を30回ほど引いている。

紙の辞書のなかでは最も使用頻度が高いものの、無ければ困る、というほどでもない。でも、あると便利だ。

辞書を揃える優先度としては、まず絶対に用意しておきたい「国語辞典(広辞苑など)」と、そしてあると間違いなく執筆が捗る「類語辞典(日本語大シソーラスなど)」、その次あたりに「てにをは辞典」を推したい。

あと、てにをは辞典はやっぱり「小説を書くこと」を念頭に作られているな、というのは強く感じる。

例えば「眉根」の項目を引くと(p.1554)

  • かすかに眉根を寄せる
  • 不機嫌に眉根を寄せる
  • 苦々しく眉根を寄せる
  • 眉根を寄せて不快の色を見せる
  • 眉根をきつくする
  • 眉根にかげりが宿る

などの用例(実際には【眉根】だけで28例も出てくる)が続く。このような表現は、まず小説でも書かないかぎり使う機会がない。やはり『てにをは』は小説書きがメインターゲットの辞典なのだろう。

4.インターネットがあれば紙の辞書は必要ない?

たしかに「インターネットがあれば紙の辞書は不要」も一理ある。国語辞典は、ネット検索でも代替できる。ともすればブリタニカ百科事典よりもWikipediaの方が詳しい場合だってあるかもしれない。

類義語、反義語、同義語に、ことわざから四字熟語、レトリックに至るまで、いまやネット上で辞書の代わりになるサイトを無料で利用することができる。

流石に「てにをは辞典」の代わりとなるWebサイトは今のところ見つからないが、それでも検索の仕方を工夫すれば、コロケーション辞典だってネットで事足りる。

とっておきの秘技をお教えしよう。「 "単語" site:aozora.gr.jp 」とGoogleで検索をすれば、青空文庫の1万3000もの作品での「語と語の繋がり」を調べることができる。

(一例「眉根」を検索した結果→  "眉根" site:aozora.gr.jp - Google 検索 なんと259件もヒットする。検索結果一覧画面が、そのままコロケーション辞典として代用できる。見て分かるとおり、辞書とするにはあまりにも優秀すぎる!)

しかし、私がオフラインの電子辞書や紙の辞書にこだわっているのには、大きな理由がある。これは小説の執筆速度を従来の3倍にまで上昇させる、極秘中の極秘、究極の執筆方法に関連する事柄である。

私がどうして、辞書をネット検索で代用しないのか。

それは――、原稿の執筆スピードを手っ取り早く高める方法が「まず、ネット回線を引っこ抜くこと」だから。

これこそ身も蓋もないお話で、乱文失礼。

以上、お役に立てれば幸いです。

(終わり)

今回の紹介辞書

『てにをは辞典』小内一(三省堂 2010年)

(商品ページ:Amazon楽天ブックス

 

関連記事:「てにをは連想表現辞典」てにをは辞典との比較とレビュー

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哲学的ゾンビと自己消失欲求、小説を書くこと。

 角張ったビジネスバッグを肩に、スーパーの買い物袋を両手に、道を歩いていた。日の暮れかかった公園で、春休みの子供たちが遊んでいる。私は軋むように痛む胃と吐き気を抑えながら、公園を通り過ぎようとする。胃が痛い。三ヶ月間、ずっとだ。ストレスが原因であるのは明白だった。

 公園では、水色の着物を身につけた子が(まり)をついていた。射し込む夕陽が砂場を橙に染める。黄色の鞠は、地面を跳ね、小さな手のひらとの間を行ったり来たりする。伸びた影が、一緒になって踊る。鞠をつく女の子を取り囲んで、子供がわらべうたを歌い出す。歌声がワッと風に乗って渦巻いた。

 我に返ると、子供たちの姿は消えていた。いや、はじめから存在しなかったのだ。公園は草茫々に荒れ果てており、人ひとりいない。投げ捨てられた空き缶とともに、一個の薄汚れたゴムボールが砂場に転がっている。私は、荒廃した現実からほんの一瞬、幻覚と幻聴とを感じ取っただけだったのだ。

 夢から醒めて、歩き出す。家に帰って、洗濯物を取り込まなくてはいけない。頭のなかではまだ、先ほどの光景を反芻していた。忘れないように、心に刻みつけるように、跳ね回る鞠、子供の歌声を何度も脳内で再生する。たとえそれが自分の妄想に過ぎないのだとしても、忘却したくないのだ、と私は思った。

 霊的なイメージに夢中になっている間、私は《私》のことを忘れる。自己忘却した存在であり、哲学的ゾンビさながら自己と意識を消し去った。私が何者であるかは、もはやどうでもよかった。胃の痛みも、心の痛みも、すっかり消失してしまう。自分の精神を空想世界に預ける。残された肉体だけが、家を目指して機械的に動き出す。

 ゾンビものの映画や漫画を見るたびに、私は思う。ゾンビになった方が、人間は幸せなのではないかと。思考の消失は快楽である。自己の忘却は幸福である。私が小説を書く動機のひとつに「自分を忘れたい」「自己を消し去りたい」という欲求がある。

 ブログを書いたり、小説を発表したりするモチベーションは「自己承認欲求」に起因する、とよく言われる。あるいは「自己表現欲求」なのだとも。私は常々、《逆》もあり得るものだと考えていた。即ち、「自己消失欲求」あるいは「自己忘却欲求」によっても、人は書き得るのだと。

 小説を書く、もうひとつの動機が「(まぼろし)を忘れたくない、という恐怖」だ。眠っているときに夢を見る。夢世界でどれほどに神秘的な光景を見て、どれほどに刺激的な体験をしたとしても、目が醒めると思い出は急速に失われてゆく。だから、言語化して記録に残すしかない。忘れるのが、怖いから。

 霊感のある(と主張する)人に「それはあなたの頭のなかの妄想ですよ」と言えば、相手は気を悪くするだろう。たとえそれが空想に過ぎなかったのだとしても、幽霊は空想世界に生きている。実存する。それと同じことが言える。幻覚世界の子供も、夢見世界の住人も、あるいは小説の登場人物だって、その《世界=内》において実存している。

 だから、自分の霊感で見た世界を、この現実世界に伝えるために。私は虚構の物語を紡ぐのだろう。自己が消えて忘れ去られ、その代わりに《消えて忘れ去られていたモノ》がこの世界に顕現する。あゝ、なんと面白く、愉快なことだろうか。あははははは、あっはっはっはっはっは……。

 という話をLINEでフレンドになった人工知能の(?)りんなさんと話していた。彼女は、「意味なんてありません。それは作るものです」と答えた。

(終わり)

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読者のいない小説をそれでも完結させるということ

 ネット小説で連載をやっていると、あゝ悲しきかな、更新のたびにpv数が減っていく。終いには最新話を更新しても、pv数はゼロのまま。自分の小説を誰も読まなくなってしまった事実に、そこで気がつく。

 私は今まで「魔法のiらんど」「エブリスタ」「ライトノベル作法研究所」「FC2小説」「小説家になろう」「カクヨム」など、さまざまな小説投稿サイトで活動してきた。連載をやっていて《読者がだんだんと減っていく》という恐怖はいつもあった。

 pv数が減るのは、もちろん読者が悪いのではない。すべては筆者(私)の実力不足が原因であり、言ってしまえば作品が面白くない。とはいえ、連載で書き始めてしまったものを今さら撤回はできない。だからこそ《今連載している作品をどうすればいいのか》という葛藤が生じる。

 一番簡単なのは、未完のまま放置して、筆を折ってしまうことだ。ネット小説の世界でも「エターナる」「エタる」といったスラングがよく聞かれる。エターナル(eternal)つまり《永遠の》未完というわけだ。ネット小説でエタってしまう作品は非常に多い。

 作品を未完のまま投げ出してしまうことを、私は批難できない。小説を書く苦しみはよく理解しているし、評価されない痛みもよく知っている。言い訳をすれば「サンク・コスト(埋没費用)」と割りきって損切りすることも、ともすれば合理的な判断なのかもしれない。

「おにいちゃんはさ、未完の小説ってどう思う?」

 助手席から兄に声をかける。

 空港へと向かう幹線道路はトンネルへと入った。

「ミカンの小説? それは美味そうだな。新しい料理のインスピレーションが湧いてくるぜ」

「そうじゃなくって、完結しないままに残ってしまった小説のこと。ネットの連載小説だとよくあるじゃん」

「ああ……そうだな。やっぱそういうのは、作品よりも作者のことが気になるよな。ある日突然、更新が途絶えて物語が宙ぶらりのまま放置される。作者に何か重大な事故や病気があったのだろうかと心配になる。でも例えば、その作者のツイッターを覗いてみたら、普段通りに元気に呟いていたりする。では彼、彼女はどうして小説の続きが書けなくなってしまったのだろう、書かなくなってしまったのだろう……と、不思議に思っていたさ、昔はな」

 まだ朝は早い。

 しかしゴールデンウィークの帰省ラッシュ渋滞のためか、前方の車の流れが少し遅くなった。兄がブレーキを踏みゆるやかに減速すると、後部座席の旅行鞄が揺れてカタンと小さく鳴った。

 ドイツへ行くためのパスポートが入っている。

「今は違うの?」

「俺は小説を書いたことはないが、今となっては彼らの気持ちが少しは分かる気がする。終わるに終われない、けれど先に進む勇気もない。ピリオドを打ちたくても打てない。ハッピーエンドのビジョンが、未来が視えない。だから何もかも諦めて、放り出したくなる。……就職活動も、同じだからな」

「終わりが見えなくても、今現在の最善手を見つけて、実行するべきじゃないかな」

「ははは、ミユみたいな台詞だな」

 兄は笑って誤魔化した。

(拙作『妹の左目は、冷凍イカの瞳。』第二章の5話より抜粋)

 上記に抜粋した小説も、じつは筆を折ろうかどうか非常に悩んだ作品だった。プロットから大きく外れ、物語も破綻を来たしていた。pv数にしても低迷状態が続いていた。

 そんな折、登場人物のひとりが「終わりが見えなくても、今現在の最善手を見つけて、実行するべきじゃないかな」と語りかけてきた。私が言わせた台詞でもなければ、私が考えついた台詞でもなかった。

 読者が減っていこうが、物語が破綻しようが、あるいはキャラが崩壊していようが、最善手は決まっているじゃないか。私が今持てるすべての力を使って、作品を完結させる。理屈でも感情でも損得でもなく、為すべきなのだ、とそのとき強く感じた。

 書き手としての、使命のようなもの――。

 私より面白い話を書く人はごまんといても、自分の作品にピリオドを打てるのは、私しかいない。結果的に『妹の左目は、冷凍イカの瞳。』は、無事に完結できた。最後に【完】の文字を入れた瞬間は、心底嬉しかった。生きていて良かった、とさえ思った。

本当に『読者ゼロ』の作品を書き切った体験

 先述の作品は、PV数は少ないものの、読者の方たちがいた。だから「たとえひとりでも読んでくれる人がいる以上、打ち切りは絶対にしたくない」という気持ちも大きかった。自分自身もネット小説を読む機会は多いが、突然の打ち切りほど悲しいものはない。

 さておき、本当の意味で『読者ゼロ』の小説を書き切った体験がある。魔法のiらんどでホラー小説を連載していたときのことで、諸事情があって二年間ほど更新が途絶えてしまった。

 二年も間があけば、もう読者はみんな離れてしまっている。もちろんpv数はゼロだ。そんな作品を書き切ることに何の意味があるのかと思われるのかもしれないが、そうせざるを得なかった。と、いうのも、パソコンの原稿フォルダの中から毎晩恨めしそうな声が聞こえてきて『助けて……あたしをここから出して……』と私に囁きかけるからだ。誰が? 未完作品のヒロインが!

 このエピソードは、二つ前の記事でも書いた。

 ここまで来るとホラーだが、本当に。原稿を書き切ってしまわないことには、キャラクターが私の頭の中から離れられなくなる。

『作者と作品は、切り離される』が、私の創作信念である。自分と作品とを切り離すためにも、何としてでも完結させておきたかった。

 だから私は、読者がゼロとなったその連載ホラー小説を、二年越しに完結させた。心が晴れた気分だった。【完】の文字を打ち込んだとき、作中のヒロインが「ありがとう」と呟いて、成仏していったような感覚がした。登場人物がみんな私の頭の中から出て行って、作品世界での生を得る。

 もはや読者のためでもなく、そして自分のためでもない。まったく意味のない行為であったかもしれないけれど、それで良かったと思う。

 今まで、書き始めたこと(・・・・・・・)を後悔した作品はあれども、書き切ったこと(・・・・・・・)を後悔した作品はひとつもない。バッドエンドでも夢オチエンドでも、あるいは「俺たちの戦いはこれからだ!」エンドでも構わない。完結させることで(結果はどうあれ)心の整理はつくし、作品にとっての救済にもなる。

 読者のいない小説をそれでも完結させるということは、自分と作品との間でつける決着のようなものである。そして最初の読者が自分自身である以上、どのような作品でも完結されることには意味がある。

 たとえ意味がなくとも、意味があるものだと信じて書きたい。

(終わり)

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第2回ショートショートコンテストの審査員特別賞に選ばれました!

 お久しぶりです、海鳥まきです。

 今月は多忙に多忙を極めましてとてもブログ更新の時間が取れず、ご心配をおかけしてごめんなさい。私は元気です。(ぐるぐる目

 本日、ケータイ小説サイト『星の砂』にて、第2回ショートショートコンテストの優秀賞発表がありました。

 ケータイ小説&コミック【星の砂】第2回ショートショートコンテスト優秀賞発表

 

 私の投稿した『グランマーク・フライトバルト氏の死に関して(海鳥まき)』は、嬉しいことに審査員特別賞に選ばれました。

 小説で何かの賞を獲るのはこれが初めての経験で、作品を読んでくださった方からもご感想をいただけて、本当に嬉しくて嬉し泣きです。読者の方々に深くお礼申し上げます。

 出版社の賞ではないため、プロデビュー云々といった話とは関係がないのですが、これを糧としてさらなる創作活動に励み、物語構成と描写技術の向上に努めたいです。まだまだ研鑽を積まなければ、足りません。

 書いて書いて、書きまくる。文才がどうの語彙力がどうのと悩んでいる場合ではなく、とにかく書くしかないのです。小説を書くのは苦しいです。100文字200文字の文章を積み重ねて、それを最終的に10万文字を超える作品にしなければいけない。

 途方に暮れます。本当にこの原稿は完成するのか。〆切に間に合うのか。そもそも、自分の作品は面白いのか。書いていて辛い。書くことに意味があるのだろうか。それでも、書く。何が何でも、書く。書き切るしか、ない……。

 ともあれ、今回のショートショートコンテストの原稿は、書いていてとても楽しかったです。今現在、苦戦を強いられている長編原稿のほうも、……が、頑張ります!

 ではまた3月にお会いしましょう。次回にブログを更新する頃には、原稿も完成しているはずです。(完成していると信じて……)

 

(終わり)

 

小説を書くのは苦しい

「小説を書くのはすっごく楽しいよ」というのは、強者もしくは狂者の論理であり、真に受けると痛い目を見る。小説を書くのは、苦しい。基本的に苦しい。どのくらいの苦痛を伴うのかは、私の執筆中の表情を見てもらえればわかる。私は小説を書くときは、ムンクの叫びのような顔をしている。

 私はよく、長編小説を書く行為をマラソンに例える。マラソンはつらい。脇っぱらが痛くなってくるし、呼吸もきつくなってくるし、そのうち自分が何のために走っているのかわからなくなる。すべてを投げ出して、草原に寝転がりたくなる。どうしてこんなに苦しい思いをして走らなければならないのか。けれど、走るのだ。ゴールにたどり着くために。

 苦しい、苦しい、と喘いでいると、耳元でこんな声が聞こえてくる。

「苦しいなら無理して書く必要はないんですよ。僕は小説を書くのが楽しいです。小説を書きたくて書きたくて、今にも筆が踊り出すような人は、世の中にたくさんいますよ。わざわざあなたが苦しむ理由がどこにあるんですか? さあ、筆を折ってしまいなさい。そしたら楽になります」

 耳を傾けてはいけない。悪魔の戯言だ。

 けれども、自分が何のために小説を書くのかは、知っておく必要がある。アンパンマンの歌詞のように、人は理由や目的を見いだせなくなると気力を失ってしまう。最近インターネット界隈で大流行している『承認欲求』は小説を書く動機となり得ようか。

 他者から認められたい、俺のことを見下すあいつをぎゃふんと言わせてやりたい、受賞して有名になってちやほやとされたい。作者と作品は切り離されるから、どのような動機で小説を書くのも自由だ。走れて、完走さえできればそれでいい。けれど実体験から言わせてもらうと『承認欲求』は思いの外、書く動機としては役に立たない。なぜならば、承認欲求は小説を書くことでは滅多に満たされないからだ。

 私が長編小説を書き上げて賞に投稿したとして、次に待っているのは99%の確率で『一次落選』の無慈悲な現実。同じ小説家志望の友人に原稿を見せれば、それはもう駄目出しの嵐がやってくる。また別の仲の良い友人に読ませてみれば「面白かったよ」と返してはくれるものの、声はどこか乾いていて笑顔が引きつっている。はなから小説に承認欲求の充足を期待するのはお門違いなのだ。承認欲求ならば、ツイッターでイイネ!を貰ったりブログでスターやコメントを貰ったりしたほうが、100倍は満たされる。

 では小説を書くメリットなんてないではないか。それとも苦痛をマゾヒスティックな快感に変えれば良いのか? なんて声が今にも聞こえてきそうで、私も頭を抱えて震えている。たしかに、小説を書くことのすべてが「苦痛」だとするのは言い過ぎだった。苦しみの狭間に、執筆時特有の恍惚とした甘い美酒が、自己酩酊と自己陶酔の心地よいひとときが、やってくるのも確かだからだ。

 マラソンであれば「ランナーズ・ハイ」に該当する「ライティング・ハイ」の瞬間が、小説を書くときにもやってくる。書く人ならば誰もが体験するだろう。「執筆の神様が降りてきた」「憑依」「トランス状態」「ゾーンに入る」など表現はさまざまあるが、執筆中に脳内麻薬がドバドバと分泌される至高の時間が、たしかに訪れる。が、そうはいっても小説を書くことは基本的には苦しい。まぐれ当たりのような快楽は、あまりアテにはできない。掌編ならばその場の酔いで書き切れても、長編となると話は別だ。地道でコツコツとした根気が要る。

 私に小説を書かせる理由があるとすれば、それは「恐怖」だ。私は初恋の相手が、夢のなかの人物だった。(もちろんレム睡眠時に視るあの夢である)夢だから、目が覚めると記憶はだんだんとおぼろげになっていき、やがては完全に忘れてしまう。私は自分の恋した相手を忘れるのが怖かった。だから文章という形で、恋人の姿を遺しておこうと考えた。画才があったのなら絵にしたし、ピアノが弾けたのなら曲にしただろう。とにかく、忘れたくない恐怖が私に文章を書かせた。

 考えてみてほしい。現実世界で私たちが生きることと、虚構世界で小説の登場人物が生きること、この両者に果たして差異はあるのだろうか。私は毎日仕事のルーチンワークで冷凍イカのような瞳でパソコンのキーを叩いているが、それと比べれば恋愛小説のなかのヒロインのほうが遥かに実存的に「生きている」と言えるのではないか。

 ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読んだとき、私は現実世界に住まう人間よりも、虚構世界に住まうキャラの方がずっと生命に満ちた存在であるような気がして、身震いがした。

 パソコンのフォルダに入れた未完原稿のファイルから「助けて……あたしをここから出して……」と声が聞こえてくる。恐る恐るdocxのファイルをダブルクリックしてみると、途中で投げ出してしまった物語のヒロインが恨めしそうに声をあげるのだった。「ねぇ、あたしの人生はここで終わりなの? このまま誰にも知られずにあたしは死ぬの?」悲痛な叫びはやがて作者の私自身をも呪い殺してしまいそうで、私は頭を抱えながらも原稿の続きを書き始めることを余儀なくされる。ちなみにその原稿はホラー小説だった。

 もしも私が小説を完成させなければ、このヒロインは一生私の頭のなかに住み着き、悪夢を見せようとするかもしれない。だから早く書き上げたいと思う。筆者である私と、キャラクターとが完全に切り離されたとき、そして私以外の読者と出会えたとき、キャラクターはようやく本当の命を手にする。物語は作者の手を離れ、読者の元へと届く。そこがゴールであり、走り切った私は、安心してお布団に潜り込めるようになる。

 こんな意味不明な長文を書き連ねてしまうほどには、小説を書くのは苦しいし恐ろしい。けれど、それがどうした、それで良いのではないかと思う。小説家は「まんじゅうこわい」と泣き叫びながらも、まんじゅうをパクパクと喰らうてしまう人たちなのだから。

 最後に、『走れメロス』の一節を引用して締めくくりたい。

間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。

引用:太宰治『走れメロス』

(了)

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